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会の紹介・カンボジア紹介

カンボジアにおける平和再建と日本の貢献

元駐カンボジア大使 JHP名誉顧問 今川幸雄

認定NPO法人JHP・学校をつくる会は、16年余にわたり開発途上国での学校建設、教育支援、人道支援等で非常に有益な活動を続けてきましたが、最も力を入れてきた国は、同じアジアにあり20余年の内戦と紛争をようやく解決して平和再建に励んできたカンボジアであります。ここではこのカンボジアという国とその国民についてひととおり述べた上で、カンボジアは紛争をどのように解決して平和を再建し、そこで日本がいかなる役割を果したかということについてお話したいと思います。

T カンボジアおよびカンボジア人

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(1)カンボジアの自然

地図をご覧になると分かるとおり、カンボジアは、アジア大陸の南東から南シナ海に突き出たインドシナ半島の中央やや南に位置し、タイ、ラオス、ベトナム3国と国境を接し、南西はシャム湾に臨み、約18万平方キロの面積(日本の約半分)を占めています。

カンボジアの中央にはメコン河と大湖を囲む平野が広がって穀倉地帯になっています。メコン河は源を遠くチベット高原に発し、中国雲南省、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムを貫流して南シナ海に注ぐ大河で、豊水期の水量は渇水期のそれの約20倍に増して、流域平野に肥沃な土壌を供給する農業国カンボジアの母なる河です。

大湖は、その南端からトンレサップ河となってメコン河につながり、豊水期にはメコン川の水が逆流して自然の調水槽の役割を果たしており、淡水魚の宝庫でもあります。中央平野の北西、タイとの国境付近には、ダンレック山脈、南西のシャム湾に沿ってはクラバン山脈及び象山脈の山々がそびえ、北東のベトナムとの国境付近には、ラタナキリ、モンドルキリなどの高原があり、うっそうとした密林には、象、虎などの猛獣も棲息しています。

カンボジアは熱帯モンスーン気候圏に属する常夏の国で、気温は1年を通じ余り変化なく{平均気温27度}、6月から10月までの雨季と、11月から5月までの乾季とに分かれています。4月が一番暑く、12月が最も涼しい時期です。

(2)カンボジアの住民

カンボジアの人口は、約1300万人(日本の約10分の1)で、85%をしめる主たる住民はアンコール遺跡に見られる中世クメール文化建設者の子孫であることを誇るクメール族(カンボジア語で正しくはクマエ族)です。クメール族は背が比較的高く、筋肉が発達し、がっしりした体つきで、皮膚は赤銅色の者が多いですが,黄褐色からほとんど黒色に近い者までおり、幼児や上流夫人には色白の者もいます。

クメール族の大半は農民で、おおむね礼儀ただしく、熱心な仏教徒が多く、温和,朴訥,内気な性格で,めったな事では怒りませんが,徹底的に侮辱されたり,抑圧されたりして感情が爆発すると,最後まで戦い抜く性格です。

クメール族はカンボジア国内のほか(カンボジア国籍ではないが),ベトナム南部に約300万人,タイに約30万人居住しています。カンボジアには,クメール族のほか,中国系人約80万人,ベトナム系人約90万人,イスラム教徒の多いチャム族約20万人,クメール・ルーと言われる山岳地帯に住む少数民族約20万人などが居住しています。

(3)文化と宗教

インドシナ半島は,印度の東,中国の南に位置するため、インド文化と中国文化の接触,融合地帯になっています。カンボジアはインド文化圏の東端、ベトナムは中国文化圏の南端にあり,アンナン山脈(チョンソン山脈)が中印両文化圏の分水嶺になっています。カンボジア(クメール)語は,ベトナム語とは異なり,中国語の影響をほとんど受けておらず,言語学上はミヤンマー南東部のモン語とともにモンクメール語系に分類され、インドシナ土着民族の言語に起源するのですが,ヒンズー教及び仏教の浸透とともにサンスクリット語及びパリー語の影響を受けて形成されました。

クメール族はほとんど全てが熱心な仏教徒ですが、カンボジアの現在の仏教はテラワダすなわち上座仏教とか小乗仏教といわれる南方仏教で,タマユット派(戒律が極めて厳しい)とマハニカイ派(戒律がやや緩やか)の2派に分かれています。仏教徒である住民の間でも,祖先崇拝や精霊崇拝なども併せて信仰されています。仏教は国教として保護され,僧侶は高く崇められていますが、ヒンズー教,イスラム教,キリスト教など仏教以外の宗教も信仰は自由です。

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II カンボジア近現代史の光と影

(1)独立達成前の時代

かつて9世紀から14世紀までの中世カンボジア王国は、西は北部マレー半島からメナム川流域、北はラオス中部,東はベトナム中部から南部に至る広大な版図を領し、偉大な都アンコールを中心に繁栄を誇った東南アジア最大最強の王国でした。しかし15世紀以降はシャム(タイ)から、17世紀以降はシャムに加えてベトナムからも侵略と干渉が繰り返されて国力が衰退し、国土が矮小化して行き、遂に18世紀後半からフランス植民主義に圧されてフランスの被保護国になってしまいました。

約80年間にわたりフランス植民地政策の下に置かれたカンボジアであっても、伝統的な王制は維持されました。1941年11月、シソワット・モニヴォン王が死去し、当時18歳でサイゴンの高等学校に在学中であったノロドム・シハヌーク王子が後継者に選ばれて即位しました。

その約2ヵ月後の12月、日本が英米蘭等連合国に宣戦を布告し、日本軍の南方進出により東南アジアは激動の時代に入りましたが、カンボジアを含む仏領インドシナは、フランスの親独ヴィシー政権支配下にあったため、表面的には協調関係が保たれ、開戦後も戦火を交えることは終戦近くまでほとんどありませんでした。しかし、日本の敗色が濃厚となった1945年3月、日本軍は,突如「仏印処理」と称する軍事行動を取り、カンボジアに侵攻してフランス軍の武装解除と行政権接収を行いました。

幸い日本軍は,カンボジアに関する限り現地で暴力行為や残虐行為を行うことはなかったのですが、外国への軍事侵攻を行ったことは間違いありません。この際,シハヌーク国王は,日本からの慫慂に応じて,一時カンボジアの独立を宣言しましたが,同年8月,日本の敗戦により幻の独立は雲散霧消してしまい,やがてフランスはカンボジアに舞い戻りました。

こうして、結局は独立運動をゼロから再出発しなければならなくなった国王は,自ら民衆の先頭に立って、フランスとの粘り強い交渉と国際キャンペンなどの平和的手段により,1953年9月,遂に完全独立を達成しました。

(2)独立後の平和と繁栄のサンクム時代

念願の完全独立を達成したシハヌーク国王は,1955年3月、王位を父スラマリット王に譲って退位し,大同団結の政治団体サンクム・レアストル・ニヨム(社会主義共同体)を組織して総裁に就任し、自ら政治の直接指導に乗り出しました。

シハヌーク殿下の率いたサンクム政権下における15年間のカンボジアは,王制社会主義の理念のもとに立憲君主制の議会制民主主義を浸透させてゆき、一部には国民大会や一般接見などの直接民主制の手法も取り入れました。外交面では中立政策を固持し、隣国ベトナムにおける激しい戦火が国境を越えて波及することの防止に全力を尽くしました。サンクム時代のカンボジアは、平和とそれなりの繁栄を維持し、カンボジアの身の丈にあったよき時代でした。

(3)三度にわたる非合法政権交代による非合法政権下の不幸なカンボジア

1970年3月、ベトナム戦争で窮地に追い込まれていた米国が、いわゆる「名誉ある撤退」を可能にするため、カンボジア領を通過する北ベトナムから南ベトナム解放戦線への補給を阻止する目的からカンボジア領内への爆撃を必要としていた時期に、国家元首シハヌーク殿下の出国不在中を狙って首相ロンノルが、クーデターを敢行してシハヌーク殿下を追放し、4月、米国によるカンボジア領爆撃を容認、10月、王制を廃して共和制を採用、自ら大統領に就任しました。ロンノル政権は米国による自国領への爆撃を容認したため国民は塗炭の苦しみを味合わされました。他方、国外にあったシハヌーク殿下は北京に亡命、「カンプチア民族統一戦線」を結成してロンノル政権に対抗しました。ロンノル・クーデターこそ、その後20余年にわたるカンボジアの内戦と紛争の発端であったのです。

1975年3月、ロンノル政権に対抗する「カンプチア民族統一戦線」の主導権を奪ったポルポトの率いるクメール・ルージュ軍がプノンペンに入城してロンノル政権を打倒、政権を奪取し、極端な民族主義的共産主義に基づき住民を苛酷な強制労働に駆使、170万人にも及ぶ自国民を虐殺または餓死させました。「虐殺政権」とも言われるクメール・ルージュの「民主カンプチア政権」は、1978年12月、クメール・ルージュから逃れたカンボジア人勢力の協力を得てカンボジア領に武力侵攻したベトナム軍の攻撃に逢って、翌年1月首都プノンペンを放棄し、タイ国境方面に逃亡してしまいました。

クメール・ルージュを掃討したベトナム軍は、プノンペンにベトナム型共産主義のヘンサムリン政権を樹立しました。ベトナムに支援されたヘンサムリン政権のプノンペン政府に対し、ベトナムに反対するカンボジアの三派は、三派連合抵抗政権を結成して抵抗を試み、カンボジアは再び内戦の状態を続けることになったのです。

(4)和平の端緒から和平成立まで(日本の関与については後述するため省略)

1987年12月、フランスのパリ東北東120キロの寒村フェール・アン・タルドヌアにおいて、三派連合政府側代表シハヌーク殿下とプノンペン政府側代表フンセンとの間で、初めて和平のための話し合いが始められました。こうしてカンボジア和平は、同じカンボジア人同士での無益な争いをやめて和解をはかろうという、カンボジア人自身のイニシャチブで開かれたのです。

和平への動きは、やがて1989年7月、カンボジア和平パリ国際会議「パリ会議」の開催となり、会議は同年8月から2年2ヶ月近い中断期間を経て、1991年9月再開され、カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定(パリ協定)の署名となって結実をみました。協定に従い、1992年3月から1年6ヶ月間、カンボジアで国連による平和維持活動(いわゆるPKO)が行われ、1993年5月、制憲議会議員選挙が成功裡に施行され、同年9月、新憲法が制定公布され、カンボジアは王制に復帰してシハヌーク殿下が国王陛下に再即位し、新政府が出来まして和平が成立しました。

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III カンボジア和平への日本の貢献

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(1)日本外交の積極的、能動的かつ創造型への転換

日本は、1945年8月、第二次世界大戦(日本は大東亜戦争と言っていましたが)に敗戦して連合国の占領下に置かれて以来、アジア諸国に対する政治的な面での関係に極めて消極的かつ臆病になり、1950年のサンフランシスコ平和条約署名、1951年の同条約発効による外交自主権回復後、経済や経済協力面では積極的外交を進めるようになっても、政治や安全保障面の外交には、消極的かつ受動的な姿勢をとり続け、特にアジア諸国での紛争への介入は極力回避しようとしました。

こうした日本の姿勢もあり、1954年のインドシナ休戦のためのジュネーブ会議、1962年のラオス問題解決のためのジュネーブ会議、1973年のベトナム戦争終結のための米越間合意を国際的に保障するためのパリ会議等、重要な国際会議に日本は招待されず、参加しませんでした。しかし日本は、1973年のベトナム戦争終結をきっかけとして、「ポスト・ベトナム」のアジアにおいてより積極的な外交に乗り出すべく、徐々に外交姿勢の転換を図り、1977年9月、当時の福田赳夫総理は、東南アジア訪問中フィリピンのマニラで行った政策スピーチにおいて、「日本は最近(当時)共産化したインドシナ3国(カンボジア、ラオス、ベトナム)を含む東南アジア諸国に対し、従来以上に積極的な外交を行う」と表明しました。

日本外交の積極的かつ能動的な姿勢への転換は、カンボジア和平への関与から始まりました。前述の通り1987年12月、フランスで最初のシハヌーク・フンセン会談が行われると、日本は、カンボジア人同士の和平への話し合いの萌芽を注意深く見守り、日本の出番を待ちました。1989年7月から8月まで(第1会期)フランスが主催し同国とインドネシアが共同議長国となったパリ会議に、日本は単に参加を求められただけではなく、難民帰還と復旧復興を担当する第三委員会で、豪州とともに共同議長国になるよう要請されてこれを受諾し(共同議長は日本側私、豪州側外務次官補代理)、成功させました。

パリ会議は途中2年2ヶ月近い中断期間を経ましたが、その間も日本は、東京でシハヌーク・フンセン会談を開催して、国連のカンボジア暫定統治機構(UNTAC)とともにカンボジア和平の中枢機関となるカンボジア最高国民評議会(SNC)の構成を決める重大な役割を果しました。パリ会議は1991年10月再開(第二会期)され、カンボジア各派と日本を含む関係18カ国によりパリ協定への署名が実現されました。カンボジア和平パリ会議への参加は、日本にとって、まさに第二次世界大戦後初めてのアジアにおける平和への協力でした。

(2)カンボジア和平過程に対する日本の積極的貢献

パリ協定署名後1ヶ月以内に、SNC議長に就任したシハヌーク殿下が亡命先の中国から帰国し、1992年3月には、国連事務総長特別代表明石康氏が着任、UNTACが発足して1年半にわたる国連によるPKOが行われました。日本は、歴史上初めて、PKOへの参加を決め、陸上自衛官停戦監視要員、陸上自衛隊施設大隊、文民警察官及び選挙監視員を派遣し、立派にその役割を果しました。特に日本の自衛官、警察官、選挙監視員などは、治安の不良、生活の困難を乗り越えて勤務に励み、規律正しく住民に親切でカンボジアの人々から歓迎されました。日本のカンボジア和平への貢献は、カンボジアの平和構築に役立ったのみならず、日本のアジアにおける外交政策を消極的で受動的な姿勢から、積極的で能動的な創造型の姿勢に転換させたものでした。こうして日本外交を積極的姿勢に導いた功労者として、故渡邊美智雄外務大臣の名を忘れることができません。

(3)和平成立後のカンボジアに対する日本官民の貢献

日本は、和平成立前の1992年から、カンボジアに対する政府開発援助(ODA)の供与を国際社会に訴え、自ら最大の援助国としてカンボジアの復旧復興のため貢献しました。

さらに日本は、政府のみならず多くのNGOが人道援助分野で活躍し、特にJHPなどのNGOは学校建設や教育など、子供のための心優しい草の根援助を今日まで続けています。また、和平成立後も、政治的安定をもたらすための協力を行い、1997年6月から7月にかけて、当時は二人首相制で、連立を組んでいたFUNCINPEC党ラナリット第一首相と人民党フンセン第二首相との間で武力行使を伴う政争が発生し、ラナリットが破れて一時フランスに亡命、1998年に予定されていた次回総選挙の施行が危ぶまれたこともありましたが、日本がデンバー・サミットで提案して日仏共同特使(私と仏外務次官補)を派遣し、無事選挙の施行を実現させ、次の2003年の総選挙には、日本政府選挙監視団(団長は私)を派遣して、選挙が自由公正に行われたことを確認するなどしました。

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