JHP・学校をつくる会ホームへホーム | JHP日記

JHPスタッフの業務や活動現場の様子が垣間見られる、JHPスタッフによるリレー日記です。公式HP内の活動紹介のみではお伝えしきれない、JHPスタッフの生の声をお送りします。

M☆A☆G☆I☆C

3月25日 東京事務所 平松千波

 先日某TV番組で、ある地域では買ってきたネギをプランターに植えて数回食していると放送していました。そこの出身ではありませんが、私も似たようなことをやっています。根付きの小口ネギを、根の部分を残して水に挿しておけば、また新芽が伸びてきます。大根も葉付きを買ってきて、青首を水に浸しておくと…。どんどん成長する大根の葉を見るのが楽しくて、食べるのがちょっと惜しくなっている今日この頃です。
 桜が咲き始め、進学、就職、転勤など新しい環境を迎えられる方も多いこの季節。JHPも4月から新年度がスタートします。これから決算に向けて忙しい日々を迎えますが、私も新鮮な気持ちでスタートしたいと思います。BGMには『M☆A☆G☆I☆C(久保田利伸 meets KREVA)』で。

写真:町の人気者トラミ(仮称)


私の孫「ゴールデン ランド」

3月18日 ソーン・ソンバット

 私は、25歳の時に結婚しました。(1975年ポルポト政権の頃です。)
妻は私の母方の近い親戚の娘でした。結婚式は、私の家で執り行われ私の両親、彼女の両親等何人かの人が参加しました。このパーティーはたった1時間で行われ、私たちは神に祈ることもしませんでした。
 その後、私たちには3人の息子と1人の娘の4人の子どもが生まれました。1人目の息子は2000年に妻の従弟の娘と結婚しました。彼らには、まだ子どもがいません。そして私の娘は私の妻の甥っ子と結婚しましたが、このカップルもまだ子どもがいません。また、2番目の息子は2009年4月に亡くなりました。3番目の息子は大学4年生で、一生懸命勉強しています。
 私と妻は、いつも亡くなった私たちの息子の事を思い出し、悲しみ、そして涙しています。しかし、そんな私たちには最近、「ゴールデン ランド」という孫ができたのです!彼女は小さく、とてもきれいな犬で、家族全員が彼女を可愛がっています。私の娘夫婦は、彼女のことを"娘"と呼んでおり、私たち夫婦は彼女のことを"孫"と呼んでいます。
 私が出張の時、私は孫の事をとても恋しく思います。彼女は私の妻や家族の誰かが悲しんでいたり泣いていたりすると、彼らを慰めてくれるのです!私たちの孫は私たちを辛いことから救ってくれていると私は思います。



ウドン公園散策

3月11日 東京事務所 岩本宗孝

 2月にカンボジアを訪れたとき、たまたま休みが1日取れたので、JHPの通訳をお願いしているリナさんの案内でプノンペン近郊のウドン遺跡を訪問しました。ウドン遺跡は16世紀はじめから約250年間カンボジアの王都がおかれた場所で、最盛期には100を超す寺院がこの周辺にあったそうです。
 プノンペンからトンレサップ川に沿って、国道5号線を1時間近く北上すると、左手にラクダのこぶのようななだらかな二つの丘が見えてきますが、これがウドン山であり、この頂上を囲んで、いくつかの遺跡が残っています。南側の丘に登ると、「18腕尺(約9m)の仏陀のビハーラ」と呼ばれる仏教寺院の遺跡があります。」これは1911年に建てられたものですが、1977年にクメール・ルージュの砲撃によって破壊されたままの姿をとどめています。もう一つの丘の上には大きな仏塔が3基そびえています。一つは金色に飾られたとても美しいもので、モニボン王(在位19271942年)のお墓、もう一つはやや古いもので、アンドゥオン王(18471859年)のお墓だそうです。さらにその北側には、つい最近完成した立派な仏塔があります。この辺りからの景色はすばらしく、はるか、彼方まで、平地が連なっている様子はなかなか日本では味わえないものです。また、ふもとすぐ近くにも壮大な寺院がいくつか見られました。
 もうひとつ、素晴らしかったのが、この昇り口近くのレストラン(といっても、屋根と縁台だけのお店)で食べたカンボジア料理。山に登る前に注文しておくと、降りてきたときにたった今つぶした鶏を丸々1羽使った料理が出来上がっていました。鳥のスープ、唐揚げ状のもの、骨付きリブを焼いたものなど、まさに「チュガニュ」(美味しい)でした。しかも通訳とドライバーさんの分を含めて、3人前12.5ドルという安さ。


School life in Primary School

3月4日 プノンペン事務所 バン・ラス

公立、私立を問わず、学校の授業時間は一般的に午前7時から11時まで、午後は13時から17時までです。授業と授業の間には休憩時間が15分あります。
朝、1時限目が始まる前に国歌を斉唱し、国旗掲揚を行います。また、一日の終わりには再び国歌を斉唱し、国旗を降納します。国旗掲揚、降納の際、国歌、国旗に対して、敬意を表するよう児童を指導している学校があります。プノンペンではコラップT小学校やノロドム小学校などがそうです。これらの学校は、授業中は校庭の門はしっかりと閉じており、安全面でも、児童の保護者は安心して子どもを学校にやれます。また、休憩中も、児童はゴミはゴミ箱に入れ、校舎、校庭を清潔に保っています。私はとてもこれらのことがとても素晴らしいことだと思っています。

カンボジア研修

2月25日 東京事務所 池谷一夫

 第4期、小山内美江子 国際ボランティア・カレッジは 昨年9月に開講し、履修生は 前半70コマの講義で国際協力・理解、NPO活動・カンボジアの歴史・実情・文化等について学び、基礎知識や理解を深めた後、後半の2月中旬から3月中旬「カンボジア現地研修」の日程になります。 今期は 社会人・学生25名の編成。現地では ボランティア活動、アンコ−ル遺跡、博物館、.孤児院、NPO活動、学校贈呈式、大使館、王宮訪問など盛りだくさんの体験学習です。参加履修生は、大変意欲的で 受講はもとより、現地の情報収集やセレモニ−の発表「日本とカンボジアの歌、演舞」など遅くまで練習しています。
 私は 2度目の参加になりますが、種々の体験を想定し 期待感大きく、今回は「子どもたちの実情把握」=「貧困でも表情豊か、素足生活、幼児の子守り風景、農作業、水汲み作業、強い向学心、無邪気・明朗」等の観察・交流を深め、帰国後の啓発活動に生かすように「記録・記憶の収録」に努めましょう。帰国直後の修了式・4月報告会・5期カレッジ広報・講師依頼などの日程もラッシュです。 さあ、まもなく 船じゃ−ない、飛行機で出発だ。
準備を始めよう!

祝賀 中華正月

2月18日 プノンペン事務所 ヘイン・サラディー

今年も私の家族、そして親戚全員が2010年中華正月を祝うために私の叔父の家に集まりました。叔父の家には、家族の幸運と繁栄、そして健康を祖先に祈るための多くの料理が用意されていました。集合した親戚みんなが正月を楽しみますが、特に子ども達はなおさら正月を心待ちにしています。なぜなら・・・大人から赤い子袋(お年玉)をもらえるからです。
祖先に料理を供え、祈った後みんなで食卓を囲み正月料理を楽しみます。さて、料理に舌鼓を打った後は、いよいよカードゲームをする時間です。子どもから大人まで全員がカードゲームを楽しみます。このカードゲームは参加者がお金を賭けるのですが、私も何回かゲームに勝ち負けた人からの賭け金を獲得しました。
カードゲームの他には、オリンピックマーケット近くに住んでいる祖父を訪ね、彼の様子を見に行きました。私も妻と娘(ダリカ)を彼の元に連れて行き、ダリカは祖父からお年玉をもらいました。
午後、私たちは王宮前に散歩に行きました。王宮前の道は沢山の路上花屋が並んでいました。そう、2月14日はバレンタインデーだからです。その後は、ダイアモンド島という建設中の新しい街に散歩に行き、くつろぎました。正月とバレンタインデーという事もあり、たくさんの人で賑わっていました。
この日の最後は、娘を水浴びさせ、パウダーをつけ寝かしつけるという私の大事な仕事で締めくくりました。

続・2010年の抱負

2月11日 東京事務所 清水陽太


 「五感を研ぎ澄まして、ひと時を大切に。朝起きて、昨日と違う温度・湿度・風・・・そんな違いを意識できる感性を育てたいと思います。」
先日のJHP便りにて書いた清水の2010年の抱負です。
一日一日を大事に生きると言うことは頭では分かっているつもりでも、ついつい繰り返しの毎日が同じように見えてしまう。そんな経験は無いでしょうか。
 上述の抱負は自分の恩師の方から一部借用した言葉なのですが、極北の地を対照に現地調査をする彼に言わせると「同じ日などあるわけがない。朝起きてみて、全てが前日と異なることを身体が感じている」の言葉と共に、上の言葉が続きます。
僕自身も感性の乏しい人間で、ふとしたことから毎日が同じように見えてしまうところがあることから上記のような今年の抱負になりました。
あとは実践あるのみ、まずはこのひと時に目の前にあるピアニカ(この原稿を書いている11日は東京事務所にてピアニカ清掃が行われています)を仕上げにかかります!

写真は本日の清掃済みピアニカ(自信作)
除菌ジェルと共に配置してクリーンなイメージを・・・

教員養成校教員対象音楽ワークショップ

2月4日 プノンペン事務所 ヒム・サヴィー(音楽講師)

2009年12月21日から30日までの10日間、JHP教員養成校教員対象音楽ワークショップが実施され、私がインストラクターとして指導しました。今回のワークショップは、リコーダー(クメール語では"クロイ"といいます)を中心とした内容で行われました。
参加した教員の全てが、リコーダーの演奏技術習得のために一生懸命トレーニングに励み、またその姿からはより音楽の知識を深めようという強い意志を感じました。私が期待していた以上に多くの教員が練習に励み、楽器について理解を深められたことにとても満足しています。
ワークショップの最後、参加者のほとんどがカンボジアの曲、外国の曲を合わせて12曲もの曲を演奏することができました。私は、10日間のワークショップが充実した内容の元、成功に終われた事をとても嬉しく、そして誇りに思っています。


先週末のできごと

1月28日 東京事務所 佐野太悟

寒くなったり暖かくなったりと忙しい冬ですが、お変わりなくお過ごしでしょうか?
僕の方はと言いますと・・・。

先週末、高校時代の友人3人とスキー旅行へ行ってきました。
スキー道具一式を事務所へ持ち込み、勤務後は直接新宿の待ち合わせ場所へ。寒いバスへ乗り込み、一路野沢温泉へ出発。土曜早朝、目が覚めたら白銀の世界!!意気揚々と朝から滑り出したところまでは良かったのですが・・・。
リフト2本くらい滑った所で友人の一人が体調を崩し休憩。一緒に連れ添って看病する僕も段々と具合が悪くなり、後を追うようにダウン。結局昼ごろには二人して宿に戻り、楽しい夕食も食べることが出来ずに寝込む羽目に・・・。翌朝日曜も体調は戻らず、結局帰る直前の昼過ぎになって動けるようになりました。「せめて温泉だけは!」と思い、10分だけ温泉を満喫し、帰路へついたのでした。
結局楽しいスキー旅行は初日の1時間で終わり、後はただの療養旅行になってしまいました。

翌日、スキーが出来なかったイライラを事務所の某Kさんに病気をうつすことで解消しようと思ったのですが、いつも鍛えているKさんには病原菌も敵わないようで、Kさんは今日も元気にジムへと消えて行きました・・・。

皆様はくれぐれもお身体にはお気を付けてお過ごしください。
写真@スキー場の風景
写真A長野五輪のマンホール

平和モニュメントプロジェクトの背景

1月21日 プノンペン事務所 イェン・タレア

平和モニュメントプロジェクトは、2007年2月にプノンペンのDTW(Design Technology Workshop)の倉庫で始められました。このプロジェクトは、日本政府の資金提供の元、JSAC (Japan Assistance Team for Small Arms Management in Cambodia)の企画調整で行われました。私は2つのグループの10人の芸術家と共に芸術家コーディネーターとしてこのプロジェクトに関わりました。
 デザインは、2人の政治家によって選ばれ、2007年の3月に建設が始まりました。始めに造られたモニュメントは、バッタンバン州で回収、焼却破棄された武器を使って作り、2つ目のモニュメントは、コンポントムで回収されたものを使いました。
 JSACは、この"平和の炎"を作りあげることで、カンボジア政府を支援したのです。2,428丁の小型武器が焼却破棄され、その多くがコンポントム州の住民によって自発的に提出されたものでした。焼却破棄された武器は、その後平和モニュメントのワークショップに寄贈されました。コンポントム州に建てられたモニュメントは、3匹のナマズが鼻の先に地球儀を乗せて跳ねながら曲芸をしている作品です。この作品名は、"世界平和"です。
 このモニュメントは、カンボジア人芸術家であるChoup Sopheak氏, Khem Sambo氏, Tan Vanno氏, Vong Daravy氏, Sophon Samkhan氏、そして私の6人で制作しました。
 この作品部分高さは3.5メートルで、モニュメント全体では5.3メートルもの高さになります。このモニュメントは、永久にコンポントム州の"子どもの公園"に設置されます。このモニュメントの引渡式は、2007年9月27日に開催されました。
バッタンバン州のモニュメントのタイトルは、"平和と発展のためのナーガ"です。このモニュメントは、カンボジア人芸術家のToun Thorneakea氏、 Ou Vanndy氏、 Ouk Chim Vichet 氏、そして Kim Samdy氏によって7ヶ月間かけて造られました。
 このナーガの作品の部分は5メートル程で、台座と噴水部分を入れると6.5メートルにも及びます。おおよそ2,350丁もの小型武器がこのモニュメントの作製に使われ、約3トンの重さになります。
 このモニュメントは、永久にバッタンバン州の市街に設置されています。引渡式は、2007年10月9日に行われました。

2009年最後の胸キュン! Room No.726

1月14日 東京事務所 芳賀幸子

 2010年が明けてもう小正月を迎えます。あまりきちんとした区切りなく新年を迎えた方は節分の豆まきをして立春を新たな気持で迎えることをおすすめします。
 皆さまにとつて幸せな一年でありますように願っております。
 ちなみに日本はお正月ムードの日々でしたがカンボジアのクメール正月は4月ですので、毎年1月と4月は現地と東京事務所で妙な慌しさが行き交うことになります。
 昨年末は、全く個人的なことですが思いもかけず胸がキュンとすることが続き、良い年の瀬というか、2009年を極める月となりました。
 そのひとつには、知人の招きに甘え、坂本龍一さんのピアノ、大貫妙子さんゲストヴォーカルのコンサートに経理の平松さんを誘い出かけ、静かで温かなクリスマスシーズンの一夜を堪能した私は"大貫妙子さん熱"が再燃し聴き続けています。今年は坂本さんと大貫さんのコラボレーションCDが聴けそうで密かに心待ちにしています。また、神社・仏閣・教会詣でのありがたさ。ご縁がある社寺をご縁がある時に訪ねられたことは何とも心が充実感で満たされました。そしてとどめの12月30日。JHP東京事務所は12月26日(土)が仕事納めでしたが、担当業務の関係で私は28日、29日と一時的に出勤し、30日に宮城へ帰省の途に着きました。帰省ラッシュの真っ只中、乗車できる新幹線が遅かった為、その日仙台に宿泊を予定せざるをえなかった私は、朝刊で「仙台ホテル」が創業から159年をもって12月31日に閉館となることを知り、ビジネスホテルよりは高いが駄目もとで電話するとシングルがとれ、おまけにかなりの割引料金であった。「最後のご宿泊のお客様でございます。」と、丁寧な女性スタッフの対応にケーブルを通じて温もりが伝わってきた。翌31日、このホテルの「最後の朝食」をいただき、チェックアウトの手続きをしていると、「ホテルから記念の贈物でございます。」と、宿泊した部屋のルームキー(正確には鍵をとった状態の部屋番号がはいったキーホルダー)をリボン付きパッケージでプレゼントされ、おまけに感謝状まで戴いた。ナンバー入りのキーホルダーを渡された時は妙にジーンときて、胸がキュンとした。涙もろいので泣きそうになった。常連客でもないのに・・・。
 2009年の終わりに、なんとも静かで、木と障子の温もりに満ちた歴史ある部屋の中で一年を振り返り、迎える2010年に思いを馳せる幸せな時間を過ごせたのでした。
あらためて2009年に感謝。2010年を大切に過ごします。  

※ 写真Bは年末、籠好きの小山内代表から"プチバザー"と称し譲っていただいたバスケットをメイクボックスとして使わせていただいているものです。小山内代表の持ち物をたまに事務所内バザーをし、売上をJHPに募金してくれてます。

写真@感謝状と部屋番号入ホルダー
    (特別出演カンボジア製鍋つかみ卵を温めているの図)
写真A北野天満宮の大福梅とお正月祝い
写真B小山内代表プチバザーで求めたバスケット

☆☆☆メリークリスマス☆☆☆

12月24日 東京事務所 清国将義

クリスマスweek楽しんでますか?
暖冬と言っていたのに、最近寒すぎます。

街中がイルミネーションで華やかになり、そんなイルミネーションを見ていると心が優しくなります。
今年のイルミネーションは省エネって事でLEDを使っている所が多いみたいです。誰と行ったんですかね〜(極秘事項なので書けませんが…)
で、自分の家もLED電球にしようかな〜っと思ったんですが、たかっっ!!!!断念してしましまいした。

クリスマスといえばわが子?!の誕生日なんです。
8歳、すごい内弁慶な彼です。そしてちょっとメタボ気味…。
散歩も走るのも大嫌いみたいです。でも寝るのと食べるのは大好き。
そりゃ〜、メタボにもなるってもんです。

今年も1年ありがとうございました。
ステキなクリスマスと年末年始をお過ごしください♪♪♪

カンボジアの牛車

12月17日 プノンペン事務所 シン・サレット

昔から現在に至るまで、カンボジアの人々は農業を営んできました。その中で、牛や水牛を用いた牛車は欠かせないものでした。牛車を用いて、農耕具や収穫物を移動する重要な手段としてきました。今日では、エコツーリズムの名のもとに観光客の移動手段としても用いられています。 牛車の部品は車体としての木材、車輪、くびきとしての竹などで、さらに飾り用に藤や鉄も用いられています。牛車では、動物がひと組2頭必要になります。1頭だけでは成り立ちません。もし、1頭しかいなくて、その1頭が左側にいたら、牛車は左に行ってしまいますし、その逆もまたしかり。
現在では、牛車にとって代わってエンジン付きの荷車の利用も増えています。けれど、それでは道を痛めてしまう事もあるのです。

カンボジアとの関わり方、いろいろ

12月10日 プノンペン事務所 七條孝司

 今年も懲りずにアンコールワットハーフマラソン(10キロの部)に参加しました。
 このイベントは、日本のNGOハートオブゴールド(HofG)と実行委員会のみなさんたちが中心になって毎年この時期に開催しているイベントで、今年で14回を迎えるそうです。HofGはオリンピックメダリストの有森裕子さんが代表を務めておられる団体で、このイベントも義手、義足支援、障がい者スポーツ支援を目的としたチャリティーイベントです。日本からもHofGボランティアさんが多数お手伝いに来られていました。素晴らしい!
 そんなイベントにカンボジア在住のNGOスタッフ&大学院生でつんだって参加した私たち。
 JHPボランティアからは2009年8月隊に参加した定方美緒さんが日本からはるばる参戦。定方さんが8月隊でカンボジアに来た時に、彼女がマラソン好きでフルマラソンにも何度も参加していると聞いて、「12月にアンコールワットマラソン」出ようよと気軽に誘ったのがきっかけでしたが、単身彼女は来てくれました。
そして、なんと彼女は女子21キロの部で3位入賞する健闘ぶり。すごい、おめでとう。活動隊では訪問できないアンコールワット遺跡群の中を21キロ走った定方さん。終了後、「アンコールトムとかバイヨンとかどうだった?」とか聞いても、「全然見れませんでした。」との反応。そりゃそうだ。でも、翌日にはゆっくりとアンコールワット遺跡群を堪能できたそうです。

 さてさて、次回2010年3月隊メンバーも決定。こんな素敵なボランティアさんたちとの出逢いを楽しみにしています。えっ、ぼくの成績ですか?それはまた次の機会に…

写真@ 定方さんゴール直後に
写真A 表彰される定方さん

新ポスター完成!

12月3日 東京事務所 中込祥高

先日、JHPの活動隊OBで、有名な広告代理店で働いている横森さんより連絡が入りました。以前から企画として温めていたJHPのポスターが完成したので、事務所に届けたいとのことでした。構想段階では、手と指でアルファベットの文字をつくり、「J」、「H」、「P」を表現する、と聞いていましたが、果たして現物はどのようになるのか? 想像できませんでした。

11月6日の夜、そのポスターが到着。横森さんがコピー担当で、アート・ディレクターの八木さんがデッサンしたという手の文字で、「J」、「H」、「P」の3枚の特大ポスターが事務所に飾られました。よく見ると、キャッチコピーの英文のアルファベットも、手と指で表現された文字になっているというこだわりもの。巨大な手のデッサンが見る人にインパクトを与えてくれる見事な出来栄えに、一瞬声が出ない程見入ってしまいました。

さて、このポスターを有効に活用する方法は?時間もお金もかかったと思われる2人力作を、JHPの広報として有効に使わなければ・・・。少し考え込んでしまいましたが、翌日さっそくその出番がきました。小山内代表のインタビュー撮影時に、その背景に使ってもらうことにしました。バックに「JHP」の文字が入るのは、宣伝としても適当ではないかと思いました。

そして、次の出番は、11月21日(土)東京ドームでやってきました。東京ドームでプロ野球OB選手の試合があり、JHPが支援を受ける企業の社会貢献ブースでポスターを展示すると、とても目立ち、来場客がめずらしそうに足を止めてくれたのです。中には、自分の手で「JHP」の文字の真似をする子どもも出てきました。会場が広いだけに、この大きなポスターが威力を発揮してくれたのです。

さて、次の出番はどこになるでしょうか?ぜひ、ボランティアの皆さんにも一緒に考えてもらい、せっかくのポスターを広く宣伝に活用していきたいと思います。皆さんのアイデアをぜひ事務局までお寄せください。

その前に、皆さんもJHPの手文字の真似にチャレンジしてみませんか?

アフリカとわたし

11月26日 東京事務所 伊藤多栄子

今回、JHPのカレッジ講師、近藤先生をはじめお仲間の皆さんとケニアに2周間「第18回JAN-KEN SAFARI」に参加した。
 東アフリカの中核をなす国ケニア。日本人にもその名は馴染みが深く昔から知っている国の一つだ。ケニアは赤道直下にもかかわらず猛暑とは無縁。首都のナイロビをはじめ、野生動物がいる大地の大半が高度1200メートルから2000メートルに及ぶ高地に属している。
 ケニアの公用語であるスワヒリ語は東アフリカの各地でも使われている。
 サファリという言葉は「旅」を意味する。ルオ族、キクユ族、マサイ族など42もの民族で構成される多民族国家、ケニア共和国、そこには、伝統を受け継いだ人々と数々の野生動物が生息する大自然。
 ナイロヒから国道を北ヘ30キロほど進むと赤道直下の町としてよく知られているナニュキの町に入る。ケニアでは赤道を越える道が幾本もある。赤道を表示する看板が立っているのですぐわかる。看板の脇で珍商売が営まれている。水の入ったペットボトルと漏斗を持って立つている。ここでコリオリ・フォスを見ることができる。
 コリオリ・フォスとは、北半球と南半球で水の流れる渦が逆になるという理論だ。まずは赤道線がら北に20メートル移動しペットボトルの水を漏斗に流し込み水を下のボウルに落ち始め漏斗の中にマッチ棒を落とすマッチ棒は右まわりをはじめる。今度は赤道線から南へ20メートルに移動し同じように水をながしマッチ棒を落とすマッチ棒は左まわりをはじめる。最後に赤道線の上で水を入れるとマツチ棒は少しも廻らない。わずか20メートルの幅で変わるなんて、でもこのパフォーマンスはインチキで流れ出す時にわずかに揺らすだけで、どちらの渦もできるらしい。
 マサイマラ国立公園では自然を実感するテントに宿泊。テントで宿泊するといつても通常のキヤンプにあるようなテントとは一味違う。屋根は萱葺きで柱もしっかりしている。壁は全てテントでできている。入口もまたテントでトイレ、洗面所、お湯のシャワもある豪華なテントだ。
 夜明け前、闇を切り裂くように、地平線が遠くに浮び上がってきた。淡い陽光がしだいに東の空をそめていく。広がるサバンナ草原、すぐ近くの草むらにインバラが静かに草を食み、太陽が地平線に顔を出した後は、遠くに動く動物が見え始める。小鳥の声も一段と大きくなる。都会では絶対に知ることのできないサバンナの朝が始まる。午後には待望の雄ライオン(シンバ)とご対面、のんびりと寝そベってさすが,百獣の王様だ。わたしの大好きなキリン(トゥイガ)やシマウマ(プンダミリア)は静かにゆっくりと動いている。何か自分が自然に生かされているようなきがした。
 今回はサバンナも目的の一つであるが学校や施設など3ヶ所に子供服を届けるために日本からダンボール5箱を5人で持参した。マサイのソバ小中学校とマサイの幼稚園そして,近藤先生が長年支援を続けているナイロビの首都近くのスラムにあるセント・シュレー学校は14年まえからアンジュリンさん63歳が運営している。運営費はまき代や電気、水道代等で5万円が最低必要だ。
 食事の出来ない子供たちの為に豆のスープを用意するなど経営は苦しい。現在、2才から14才の50人が通っている。政府からの支援が少なく先生の給料2000円〜4000円が遅配になることがよくある。親は日雇いが多く1日8シリング100円で生活していることもある。スラムは暴動やエイズ、部族での争いで90万人が国内で家や土地を追われて25の施設で生活している。セント・シュレーの子供達はやんちゃで目がキラキラ輝いてとても皆仲良しで元気がいい。中学校を卒業するとビュテイースクールに入学し美容師になる子供が多いとか。
帰国後映画「チョコラ!」を観た。ケニアのストリートチルドレンに密着したドキュメンタリ映画だ。
ゴミと希望, 拾って生きる、 アフリカの路上に生きる子どもたち  
アジアもお隣の国・アフリカも「お隣」の国でありたい。

写真@ケニア・日の出  写真Aケニア・赤道直下
写真Bマサイマラ国立公園内のホテル 
写真Cセント・シュレーの子供達

毎日練習、今日も練習

11月19日 プノンペン事務所 植田渉

ワットプノンさくらマーチングバンドの生徒たち、日本で言うところの中高一貫校で「部活」としてこのバンドに参加しています。現在、初めて出場する国際大会(KLWMBC2009)に向け、日々練習に励んでいます。

しかしここは、部活があったり、体育祭のような行事に向けて毎日必死に練習をしたり、というような経験を普通には出来ないカンボジアの学校。生徒たちはあまり経験したことの無い「教科の勉強以外の事を毎日必死に頑張らなくてならない時間」の中で、結構大変そうです。でも皆、よく頑張って指導に付いて来ています。

ところで、マレーシア・タイ・インドネシアなど東南アジアの中でも経済発展が進んだ国の都市部では、マーチングバンドやスポーツチームのような「部活動」が比較的当然の事として行われている様です。

カンボジアも、いつかは同じような教育活動が出来るようになる日が来ると信じ、そのパイオニアと言われるであろう、ワットプノンさくらマーチングバンドがもっと輝くように・・・今日もそんな夢を追いかけて、練習です。

断酒2ヶ月

11月18日 東京事務所 松本伸夫

天皇・皇后さまのご成婚パレードが晴れやかにテレビ中継されている中、上京して大学入試の合格発表を見て、ビールで祝杯をあげたのが、私とお酒との半世紀に渡る長い付き合いの始まりでした。1959年4月のことです。以来、大学時代は大学正門前に新装開店したばかりのトリス・バーに通いつめ、地方支局勤務の新聞記者時代は取材源の刑事さんと安い居酒屋で日本酒を深酒する毎日。31歳でカンボジア常駐特派員としてプノンペンに2年間派遣されると、カンボジア内戦取材のため当時の南ベトナムから続々とやってきた外国特派員・カメラマンたちと戦場での武勇伝を肴に「今日もタマに当らず無事でよかった!」と、飲み会の連続でした。7年間のパリ特派員時代は、深夜の夜食(スペ)を含め1日3食、おいしいワインを欠かしたことはありませんでした。
 大学教員時代の楽しみは、ロマンス・カーの座席でウィスキーの水割りをちびりちびりやったほろ酔いのその足で、新宿東口の行きつけの静かなレストラン・バーに行き、良質の炭酸ソーダ割りハイボールで一日の疲れを癒すことでした。こんな酒びたりの生活を続けて今年で半世紀。
 軽い糖尿病に20年以上かかって毎月1回専門医の定期健診を受けている以外に病歴のない私が、この夏たて続けに深酒のあと意識を失い、昏睡状態に陥りました。血液検査のあと、主治医に聞いても原因不明とのこと。そこで老境が気になって半世紀ぶりに9月5日、初めて自主的な断酒を敢行した次第。それから2ヶ月、禁断症状もなく、断酒はまだ続いています。お酒のない質素な生活も、またいいものですね。

「人の輪」

11月12日 プノンペン事務所 平林智咲

午後8時、いやもうすぐ9時か。やっと探した我が家の門を静かに開ける。
門が開くとともに、3階のドアが開き、
「サ――キ!ごはんは食べたの!?」
と我がカンボジアの母(大家さん)。
「まだです。これから食べようと思っているけど、もう寝ようかな。」
と言うと、
「早く来なさ――い。ごはんいっぱい余ってるから!」
といつものように大家さんの家で夕ご飯を頂くというのが、私のカンボジア生活のパターンとなってきました。
「困った時は、いつでもお母さん(マー)に言うのよ。」
こんな言葉でいつも私を支えてくれている大家さん。熱っぽくて、食欲がない時は「ボーボー(お粥)を食べれば治る!」と言って、マッサージをしつつ、お粥を作ってくれる。
こんな人の温かさが溢れているのが、カンボジアの良さであり、私がカンボジアを愛する大きな理由でもあります。実際は1人暮らしということになっていますが、上に住んでいる大家さんは疲れて家に帰った時、自分を迎えてくれるもはや家族同然の存在となっています。
国籍という枠にとらわれず、家族や親せきという枠にもとらわれない、カンボジア人の人と人との垣根の低さ。20数年間日本で暮らしていた時にはあまり感じたことがなかった感覚です。日本ではバスに座ればすぐに音楽を聞いて自分の世界をつくり、隣の人と話すことがなかった私も、ここでは、隣のおばさんに「あんた、日本人?どこ行くの?あら、プノンペン?あたしはプノンペンでお粥売ってるから、今度食べに来なさいよ!」と言われ、電話番号の交換なんていうのも日常茶飯事。こんな風に、カンボジアの家族、親戚、兄ちゃん、姉ちゃん、「人の輪」を広げていくことが、今では私のカンボジアでの生活を充実したものにしてくれています。これからもこんな人との心の触れ合いを大切にしたいなーと思っています。

久郷ポンナレットさんの著『虹色の空』の紹介

10月29日 東京事務所 吉岡健治

久郷ポンナレットさんは数年前自身の体験を書かれた『色のない空』という本を出されていますが、今回『虹色の空』―カンボジア虐殺―を越えてという本を書かれたので一人でも多くの方に読んでいただきたいと紹介させていただきます。『色のない空』はカンボジアの首都プノンペン市で両親と兄弟姉妹10人で幸せに暮らしていたポンナレットさん一家が1975年4月クメールルージュの首都進攻により、強制的に首都から退去させられ、家族バラバラにさせられながら、ポルポト政権の下での虐殺と重労働を如何にして生き抜いたかの体験記です。クメールルージュが進攻してきたときポンナレットさんは10歳でした。内戦が終わったときには兄2人姉1人と本人の4人だけが生き残り、現在は4人とも難民として日本で暮らしています。今回出版された『虹色の空』の前半は『色のない空』と重複していますが、犠牲者を弔う慰霊碑を『色のない空』の印税で建設し、殺戮の行われた村を訪ね、犠牲者の弔いに加害者も参加してもらうことにより許しと平和を訴えた本が今回の『虹色の空』です。ポンナレットさんの命の大切さと平和への強いメッセージが伝わってきます。子供のころ大変感動したドラ・ド・ヨングの『あらしの前』と『あらしの後』を思い出しました。ドイツ軍に侵略される前に幸せだったオランダの一家が戦争をどう生き抜き戦争が終わったとき一人一人がどうなってしまったかの話です。
ポンナレットさんのお母さんやその他の犠牲者の霊を弔いたいという個人的な行為は結果的にクメールルージュ裁判以上に過去の残虐な歴史に真剣に向き合い、事実を確認し、仕返しではなく、許すことにつながっています。特に犠牲者の弔いに加害者も参加してもらう企画は憎悪と復讐の再生産に陥りやすい状況を解きほぐす手段とつながったと思います。
現在クメールルージュ裁判がおこなわれていますが、カンボジア政府にはこの裁判により過去にけじめをつけようという決意が感じられません。国際社会の圧力に対し最低限の形を作るだけにしようとしているようにすら見えます。ポンナレットさんの行動は個人的な行動ではありますが、クメールルージュ裁判より被害者の中に加害者が紛れて一緒に暮らしているカンボジア社会に和解をもたらし、本当のけじめをつけることにつながるのではないかと思います。
出版社は春秋社、定価1700円です。店頭には並んでいませんがどの本屋でも取り寄せてくれます。是非購入して読んでください。

ワットプノン中学校のマーチングバンドトレーニング

10月22日 プノンペン事務所 クッ・チャリア

2009年12月にマレーシアで「Kuala Lumpur World Marching Band Competition」が開催されます。ワットプノン中学校のマーチングバンドの生徒たちは、何とかしてこのイベントに参加したいと思っています。このイベントに参加するために、日本からは尾田一夫先生に来てトレーニングをしていただいたり、植田渉さんに練習の指導していただいたりしています。そして今回、マレーシアから Jimmy Wong氏率いるインストラクターが指導に来てくれることになりました。
生徒たちは本当に一生懸命練習していました。なんと、8時から12時、2時から6時まで、1日8時間!(註:通常のトレーニングでは1日6時間が限界)Jimmy Wong氏のインストラクター集団は、演奏やマーチング、カラーガードのプロフェッショナルです。ワットプノン中学校の音楽棟内でマーチングドリルの練習ができないため、校庭で練習しました。時々雨が降りますが、それでもできるだけ外で練習します。8月から12月はカンボジアの雨季。外で練習を始めては雨が降り、雨がやんではまた再開するという様なことがありました。
特にカラーガードの生徒たちは、今回のトレーニングで初めて旗の振り方を習いました。それまで太陽の下で練習をしたことがなかったので、彼女たちにはさぞ厳しい練習だったでしょう。一番厳しかったことは、体を動かすことで、カンボジアの若者はほとんど運動をしませんし、ヨガの知識もありません。運動は彼女たちにとってはとても新鮮なことです。最初に彼女たちに出会ったときは、少し太り気味な様子でしたが、練習を重ねていくにつれ、少しずつ痩せて、美しく見えるようになりました。カラーガードの練習は難しいですが、マーチングバンドのパフォーマンスで素晴らしい役目を果たすものです。私はカラーガードの生徒を励ますのが大好きで、トレーニングに行くのをとても楽しみにしていました。
インストラクターの方々には、時間とお金、そして体力を使って私たちのバンドを指導してくれたことにとても感謝しています。ワットプノンさくらマーチングバンドは、残念ながらクアラルンプールの大会に初出場で優勝するまでには至らないでしょうけれど、他の出場バンドのショーを見て、大きな刺激を受けて帰ってくることと思います。

カンボジア最新事情

10月15日 東京事務所 岩本宗孝

この8月に活動隊とともに久しぶりにカンボジアに行きました。この国も少しずつ発展をしてきているのは間違いなく、特にプノンペン市はここ数年のバブル景気のあおりで、新しい建築物のラッシュになっているのを感じます。すでに外資系の銀行の40階を超えるビルが建築済みで、オープン間近ということですし、我々が定宿としているトーキョーホテルのすぐ近くには、韓国系の会社がやはり42階建てのビルを建築中(写真)です。日本の多くのビルのような鉄骨構造ではなく、鉄筋コンクリート造りのせいか、その支柱となる鉄筋は、これでそんな超高層ビルを造って大丈夫か、と思えるほど貧弱に見えます。さすがに地震のない国柄なのでしょうか。それでも万一、地震があったときは、我々のホテルの方に倒れてきはしないかと心配です。
 プノンペンはそんな状況ですが、一歩,首都を離れると、私が最初にカンボジアを訪れた7年前とまったく変わらない光景が随所に見られます。特に、今回のボランティア活動で訪れたスワイリエン県はベトナム国境に近く、周りには広々とした原野や田畑が広がっています(写真)が、国内でも特に貧しい地方の一つとも言われているそうです。学校に遊びに来る子ども達も薄汚れた衣類や裸足が散見されます(写真)。でも、その子ども達の屈託のない笑顔は相変わらずです。貧しさの中にも幸せな笑顔が輝いていて、ついつい、物質的には恵まれても、必ずしも心の豊かさには恵まれない日本の子供たちの顔と比較してしまいます。

ござ

10月8日 プノンペン事務所 ティム・パリー

カンボジアは熱帯で高温多湿ですので、田舎に住む人たちはマットを使わず、ござを使っています。しかし、生活状況次第で、絨毯を使っている都会生活者もいます。ござにはいろいろな種類があり、ヤシの葉、竹、ラタン等がありますが、最良のものはスゲです。カンボジアの農家はござを手織りしますが、タイ、ラオス、ベトナム等の国では、すでに機械化されており、手織りは効率的ではありません。

どうやって伝統的なござを織っているのでしょうか。農家はスゲを湖や川岸に植えます。刈り入れられるようになるまで約4カ月かかります。スゲを刈りいれた後は、薄切りにして乾かし、織る前に染めます。カンボジアで一般的な方法は、2人の女性が1台のはたを織ります。この種類のござは寝る時やお客を迎える時に使われますが、ヤシの葉のござよりも随分値段が張ります。

ヤシの葉のござは穀物の収穫後に乾燥させるために使われることが多いですが、小屋の壁貼りに使われることもあります。田舎に住む人たちの中には、生活状況が苦しいため、このござを敷いて寝ている人もいます。将来、ござが織り機で生産できるようになり、人件費を削減できるようになったらよいと思います。

しかし結論としては、ござは人間の生活にとても便利なものです。

クメール語に挑戦!

10月1日 東京事務所 平松千波

この夏、8月隊に途中参加しカンボジアに行ってきました。
2週間足らずでしたが、コンポンスプー、スワイリエンも訪ねることができました。
プノンペンを離れると、のどかな田園風景が続き、家畜たちと共に暮らす生活風景に癒されるのですが、今年は雨季なのに雨が少なくお米が不作、昨年の金融恐慌の影響などの話を聞くと、実際の生活はどんなに厳しいのだろう...と身につまされました。
ブランコ建設中、現地の人も手伝いに来てくれて、交流する機会があったのですが、クメール語ができないので、片言の英語、もしくは身振り手振りでしかできず、もっといろいろ話ができたらなあと思いました。

クメール語を少しでも覚えよう!とCCHの子どもたちに教えてもらいました。
「モイ(1)」、「ピー(2)」、「バイ(3)」まではよかったのですが、
その次がなかなか進みません。「ボオン?ヴォン?ブオン?(4)」
何度も何度もやり直すのですが、違いがよくわからない...。
どうやら口を小さくすぼめて発音するのが正解のようでした。
クメール語の習得は、前途多難です...。

私にクメール語の指導をしてくれたCCHの子どもたちのカレンダーが出来ました!1部500円(税込)でお求めいただけます!(送料は実費ご負担いただきます)CCHの子どもたちを身近に感じていただき、応援していただけましたら幸いです。
詳しくは、こちら⇒CCH2010年版カレンダーはこちら

「ジャニーズv.s.韓流アイドル」

9月24日 プノンペン事務所 中山中

CCH開所時の子供達は大分大きくなり、いわゆる「お年頃」の子が増えてきました。その中でも女の子たちは、イケ面好きなのでしょうか、なんと日本のジャニーズが好きだったり、韓国のアイドルグループのファンだったりするのです。流行に疎い私は、「Hey!Say!JUMP」の誰々がかっこいいとか、いやいややはり「KAT-TUN」の誰だとか、韓流アイドルの誰のどの歌と踊りがいいとか言われても、わからないのです。ジャニーズと言えばやはりキムタクではないのか?韓流と言えばヨン様だろう?
お隣の国タイでもジャニーズと韓流アイドルが絶大な人気で、バンコクにいる知人に頼んでジャニーズのDVDを焼いてもらったり、日本に一時帰国したスタッフにアイドル雑誌を頼んだりして、子供達にあげました。きっかけが何であれ日本の事に興味を持ち、好きになるのは良し、と納得しながらも、私自身イケ面アイドルの雑誌やDVDを見ても、数分で飽きてしまうのでした。

カレッジ3期生の活躍

9月18日 東京事務所 池谷一夫

 昨年9月から今年3月まで第3期 小山内美江子 国際ボランティアカレッジが開講され、履修生は28名の活気溢れる皆さまでした。学生13名、社会人15名が ともに学び、カンボジア現地活動を体験し、巣立っていきましたが、その後も、国内で報告会、JHP事務所でのボランティア活動、交流会、メ−ルでの情報交換等々が続いております。
履修生は、国際協力に関心を持つ人が多く、学ぶ意欲、貢献したいという共通性があることも、また、講師の新鮮・専門的な講義内容等から受ける刺激、現地の炎天下で子供たちのためにブランコづくり、学校贈呈式セレモ二−で日本の歌の披露、史跡見学、孤児院訪問ほか盛り沢山の日程を体験、クリア−してきた思いが絆を深くしたものと思います。研修の効果は「友達を得る」ということも大きな魅力ですネ。
静岡・千葉・福島などから遠路通学された方や留学、外務省青年海外協力隊、タイの日本語学校教師、教職になるため再度、大学編入した方、他のNPO企画事業「世界青年の船」などに それぞれ合格し、チャレンジ中など、皆さん ほんとによく頑張っております。
6か月間で学んだことが、きっと生きると思いますし、JHPの標語「できることからはじめよう」にマッチするような「空気を読んで」の熱い雰囲気です。
これからの皆様の活動に期待と敬意を感じ、私も努めていきましょう!

バッタンバン・スペシャル

9月11日 プノンペン事務所 新屋由美子

 音楽・美術等の普及活動を行っている私のチームは、活動の性格上、さまざまな地域へ出張することがあります。現在はプノンペンから車で約5時間のところに位置する、バッタンバンに来ています。バッタンバンは農業が盛んで、またタイ国境に近いため、プノンペンに次いで3番目に大きな街です。
 バッタンバンでの出張の楽しみの一つに、プノンペンや他の地域では食べられない、めずらしい料理や果物があります。例えば朝ごはん。カンボジアでは豚肉や鶏肉をのせたご飯や、米麺、フランスパンが一般的な朝食とされています。しかし、最近のJHPスタッフお気に入りのレストランでは、牛肉や魚ジュージューなご飯(写真上)や、ミー・クロラーとよばれる、野菜と卵がからめてあって、さっぱりしたゆで麺(写真中)等が食べられます。また、バッタンバンでしか採れないと言われている種類のココナッツ(ドーン・クティッ、写真下)もあります。普通のココナッツに比べて実は小ぶりながら、果肉は濃厚。カキ氷の上にこのココナッツの果肉をのせ、コンデンスミルクをかけるとやみつきになります!ただし、屋台で氷を食べると、おなかを壊すことがありますので、要注意です。



未来の記憶

9月4日 東京事務所 木村 晋也

 福井県池田町。僕が以前一年間過ごした過疎化が進む面積の9割が山という小さな山村だ。農繁期には手伝いに帰りたいといつも思うのだが、理由を見つけてはなかなか帰れずにいる。そんな僕でも久しぶりに帰ったときは、皆、僕をいつもいる人間として迎えてくれる。 今朝、いつものように新聞を読んでいるとその中に池田町を見つけた。内容はダムに沈む土地の人たちである。山でワサビを取る元気なオババの姿が掲載されていた。 「そうだ、池田の中でもより深い山奥の集落のダム建設がもう始まるんだ」

僕の母方の祖父は大阪市内で刺繍工場を営んでいた。昔は関西圏や四国から住み込みで働きに来た人たちでにぎやかな家だったらしい。今ではもう会社はたたんでしまったが、祖父がまだ元気だったころ、盆と正月は必ず、その昔ながらの広い木造の家に親戚一同が集まり、にぎやかに過ごしていた。子どもにとって古くて広い家は最高の遊び場であり、同時に古い天井や壁は怖いものを想像させる不気味な場所でもあった。 祖父が亡くなり、伯父が住むようになり、モダンな家に建替えられた。大阪へ行けば寄らせてもらう家だが、その家に向かう途中、最初に頭に描く行き先は祖父がいたころの古い家である。シナプスが繋がり、あっもう違うんだ、と頭の中の画像を切り替える。もう最初の画像を張り替えるのは不可能らしい。

そんな平凡な幼児体験でも、多少の影響を今の僕に与え続けている。 毎回涙を流しながら戦争体験を語る方々の経験は想像を絶し、今でもその方々の日常に影響し続けているのだろう。 自然と共に山からのお恵みで暮らしてきた池田町のオジジ、オババの集落は水の底へ沈んでしまうが、70、80年間の自然との暮らしはこれからも彼らを影響し続けるだろう。 簡単にダム反対署名運動を考える人もいるだろうが、数年前に池田町を襲った集中豪雨は福井県に多大な被害を引き起こした。上流に住む彼らはこの先、水害被害拡大防止のため住民投票により、ダム建設を決定した。彼ら自身が決めたのだ。

ひどい水害になるのはなぜか。なぜ杉ばかりの山なのか。なぜみんな土地を離れて都会へ行ったのか。なぜ建築用木材を多く輸入するようになったのか。減反政策はなんだったのか。

無力な僕らに何も出来ないわけではなく、まだ彼らの話を聞くことができる。少しでも彼らの記憶を想像することができる。これから先、彼らの記憶の中に新しい答えがあると少なくとも僕は思う。


卵料理

8月28日(金) プノンペン事務所 メン・サコーン

今回は、カンボジアのある卵料理についてお話しします。この料理は何百個もの卵を使います。
まず、殻に丸く穴を開け、中身をボールに移します。これに塩、砂糖、胡椒、ニンニクなどを混ぜ合わせます。そしてそれを卵の殻の中に戻します。これを蒸し器に入れ、中身が固まるまで待ちます。中身が固まったら、網の上に載せ、水分を飛ばせば完成。

この様な料理を食べたことありますか?他の国でも似たような料理があるかどうか、知っていたら教えてください。

暑い夏の読書

8月21日(金) 東京事務所 清水陽太

定期インターンの清水です。
暑い日が続きますが皆様体調など崩されていないでしょうか。
僕はと聞かれれば、典型的な一人暮らしの不健康生活を続けているのですが、元から好きな季節ということもあって楽しく過ごしています。

さて、最近ミヒャエル・エンデの「モモ」の再読を終えて色々と考えるところがありました。要約は難しいので皆さんに是非読んでもらうことをお勧めしますが、本筋に関係のないところを少し紹介します。
物語の中にカシオペアと言う名の、「カメ」が登場して主人公のモモを幾度となく助けるシーンがあります。このカメ、なかなか素晴らしくてなんと30分先の未来を見ることができます。物語の中で幾度となくモモがカシオペアに不遇を嘆きかけるシーンがあるのですが、そこでカシオペアは「BY CHOICE」という返答でモモを煙に巻くシーンがあります。その言葉が凄く好きです。日本語にするとどう訳すのでしょうか。「決めたこと」とか、「どうしようもない」とか訳すのでしょうか。
自己流に推測するにそのカメが言いたいのは、何事も周りの環境や状況が自分の行動を決めるのではなく(そうせざるをえないケースも時にありますが)、最終的に決断を下すのは自分ということではないでしょうか。当たり前と言えば当たり前ですが・・・
都内の某大学で、某学部を選んだ自分、去年の夏に2ヶ月ボランティアをして様々な経験をした自分、気づくとJHPで半年以上もお世話になっている自分・・・
どの選択をする時も「これがベストの選択だ!」なんて確信は一度もなかったのですが、自分の選んだ選択肢が結果的に、終わって10年後にでも「その選択しでよかったな」と周りからも自分からも認められるような選択には絶対にしたいな、と日々思いながら活動しています。 自分や周りの人の目を気にしなくて良い、ということは自分には出来ない気がします。
自分にも、周りにも認められたい、いわゆる俗人です!

そんな自分から見ると、本当に尊敬出来る人の多いアスリート達の話もたくさん載っています。クリック募金も引き続きお願いします!http://www.jhp.or.jp/sanka/yomu/onlinenews.html#090630

アプサラダンス

8月14日(金) プノンペン事務所 ソンバット

アプサラダンスは、1960年にノロドム・スラマリット王の妻、シアヌーク元国王の母であるシソワット・コサマック妃によって正式に創られました。王妃がソティアロス小学校を訪問した際、校長が生徒に見世物を用意させ、アンコールワットのアプサラの冠に似せた紙細工をしていました。王妃はそれを見て興味を持ち、アプサラダンスを考え出しました。当時はアプサラダンス、またはロバム・テヴァダーと呼ばれていました。アプサラの冠や衣装はアンコールワットのアプサラから取られています。アプサラダンス、またはロバム・テヴァダーは、整然としたリズムを持つ、「プレア・レエチャトロップ」と呼ばれる宮廷音楽とともに踊られます。アプサラダンスの動きはゆっくりですが、確かにカンボジアの財産としてふさわしいもので、カンボジアの伝統となりつつあります。
 アプサラダンスは日本、フランス、アメリカ、カナダ、イタリアなど、世界で上演されています。アプサラダンスはカンボジアにとって大切なもので、永遠に国宝としてカンボジアの人たちに継がれていくことでしょう。

夏のJHPとキビナゴ!

8月7日(金) 東京事務所 芳賀幸子

早くも立秋(8月7日)を迎え、暦の上では秋を迎えました。残暑お見舞い申し上げます。
大雨の被害を受けた地域の皆様にはお見舞い申し上げます。
JHP・学校をつくる会の面々も各人それぞれが"熱い夏"を過ごしています。
先日、8月2日(日)には「2009年カンボジア8月隊」が海外事業部長の清国さんの引率で元気に出発し、現地での活動の様子は順次更新されますので、そちらをご覧になって、しばし"カンボジア活動隊疑似体験"をご堪能ください。続いて本日7日には東京での仕事を終えて小山内代表と岩本理事、経理を担当する職員の平松さんが出発、現地でちょっと日焼けし勇ましさも出てきてるであろう(?!)8月隊に合流。17日には職員の木村さんが出発し現地で清国さんとバトンタッチ。さてさて一方、東京事務所ではJHPの活動を支援くださる皆様のイベントが続くため、各イベント会場へJHPブースを出展し啓発活動に余念がありません。8月8日(土)は「サクライズ サマーフェスタ」が川崎競輪場で開催されます。若いミュージシャンが立ち上げたサクライズ実行委員会がJHPを介してカンボジアの教育事情を知り、イベントの収益の一部を音楽教育に役立てるためにご寄付くださることになりました。当日は無料でライブを観覧できる上、フリーマーケットや飲食店も多数出店予定なのでお祭気分を楽しんでください。「JHPブース」を出店し活動紹介やグッズ販売、そして広報担当職員の大平さんと私ハガは二人で個人的にフリーマーケットにも参加。衣料品や衣料小物・雑貨を販売するので覘いてみてください。15日には大田区平和祈念コンサート開催など音楽を通じて国際貢献くださるイベントが続きます。JHPのオンラインニュースなど、ぜひチェックしてください。
私個人の人生を振り返ると音楽から勇気や優しさ、愛、強さ、信頼、動物的な何かを得たように感じています。某企業のシンプルな理念"○○○○は音楽を愛しています"は、ある種、私の人生哲学のひとつかもしれないな・・・と思う時があります。音楽でなくても、シンプルにそういい切れることに関わることが肝心なのだろうと思います。
「キビナゴ」は美味しい。元JHP職員の古川さんとある晩の食事をご一緒しました。彼女が選んでくれた一夜干のお店できびなごをいただいた。小さいのに栄養豊富、安くて美味しい。シンプルだわ。6月下旬頃からが旬らしい。LOVE !キビナゴ!
 写真はJHP新事務所の早朝の様子です。急いで携帯で撮ったので伝えきれずごめんなさい。事務所の様子とどう違うのか、直接確認しにぜひお立ち寄りください。
 10月3日(土)「天満敦子チャリティーコンサート」のお申込も絶賛受付中です!

無題

7月31日(金) プノンペン事務所 バン・ラス

カンボジアの首都、プノンペンでは、いろいろなところで都市開発が進んでいますが、遊歩道やプレイグラウンド等も整備されつつあります。今回は、2008年11月にリニューアルされた公園を紹介したいと思います。この公園は、プノンペンのシンボル、ワットプノンのすぐ東に位置しています。週末には、私も子どもたちを連れてこの公園で遊び、さらにゾウや猿がいるワットプノンを詣でる、という楽しい時間を過ごしています。子どもたちはいつもとても楽しそうに遊んでいます。ここはカンボジア人だけでなく、外国人もきっと気に入ることでしょう。どうぞ、プノンペンにお立ちよりの際には、この公園を訪れてみてください。

フィリピン

7月24日(金) 東京事務所 大平初美

 こんにちは。夏が近づいてきましたね。みなさまいかがお過ごしですか?

 わたしは先日、岡山で大学時代の友人5人とキャンプをしました。山に囲まれた、きれいな川のあるキャンプ場です。川にスイカを冷やし、友達が育てた野菜でバーベキューをしました。

 その友人達は、大学時代にフィリピンのスタディツアーに参加して、一緒にサトウキビ農村でファームステイをしたのがきっかけで知り合いました。(あれから10年たったんだなあ・・) そのツアーの目的は「フィリピンの貧富の差を自分の目で見る」ということ。3週間の滞在で最初の1週間はマニラ、次の1週間はフィリピンの貧困地域といわれるネグロス島でファームステイ、最後の1週間はバコロドという都会でのホームステイです。
 ネグロス島でのファームステイ先には3つの集落があり、サトウキビを育てて生計を立てているようでした。舗装されていないデコボコ道に沿ってヤシの木が生え、「こんなに広い場所を見たことがない」と思うくらいサトウキビ畑が一面に広がっていました。 生活面で言うと、家は竹のような植物でできた家屋で電気はなく、暗くなるとみんな寝ます。わたしのステイ先にトイレはなく、到着当日に差し出されたのはバケツで、「これで用を足しなさい」ということでした・・。お風呂はなく、たまに近くの川で水牛と一緒に行水をしました。ご飯はお米と鶏肉(たまにラーメン)で、右手で食べることが習慣になっていました。朝は早いです。4時とか5時くらいにニワトリが鳴き、お父さんはサトウキビを刈りに行きます。子どもは近くの学校に行き、お母さんは家事をします。大事に容器に溜めた水で顔を洗い、井戸を使って洗濯をします。生活自体は大変質素で決して裕福ではないのですが、村全体が一つの家族みたいで、わたしが村を歩いていると、よその家から「ごはん食べて行きなさい」と声をかけられたり、ステイ先の家にも知らない子どもが入ってきて普通にごはんを食べて帰ったり、日本で生活してた大学生のわたしたちにとってはすごく新鮮で、心温まる、日本が(物質的に)恵まれているということに気づいた一週間でした。

 では、都心部バコロドの富裕層の生活はどうだったか?友達が泊まらせてもらったお家は、お手伝いさん(料理をつくる人、運転手、掃除する人)が数名いて、ホストシスターの部屋は一軒の家のようなもので、トイレ・シャワー完備。その子の妹の誕生日(フィリピンではある年齢は特別らしい。何歳かは忘れましたが)にはフィリピンの歌手が歌いに来るほどでした。農村とのギャップにビックリ。なんでこんなにも差があるんだろう?と複雑な気持ちになったことを思い出します。

 あれからフィリピンには行けていませんが、今はどんな国になっているんでしょう・・?

 余談ですが、友達の一人がJHPのクリック募金をやってくれているそうで嬉しかったです。 皆様もよろしければポチッとお願いします。http://www.jhp.or.jp/sanka/yomu/onlinenews.html#090630


自己紹介/JHPに来て思うこと

7月17日(金) プノンペン事務所 ヘン・サラディー

私の名前はヘン・サラディーです。JHPプノンペン事務所の新スタッフです。4月20日から勤務しており、JHPが学校建設、教育支援、CCH支援、活動隊によるブランコ作り、音楽と美術の専門家を派遣していることなど、日々学んでいます。

現時点ではカンボジアの教育システムはまだ未熟で、早期の改善が必要とされています。当国はJHPだけでなく、数多くのNGOに支えられています。もしNGOがなかったら郊外や地方では校舎などが全く足りていないことでしょう。学習環境の改善は、次世代のために非常に重要です。

個人的な意見ですが、NGOは当国が先進国が持つような教育の質を手にするために、政府とともに協力しながら、重要な役割を果たすと思います。この3カ月、音楽と美術プロジェクトの調査中、たくさんのことを学びました。地方の学校が持つ問題をこの目で見て、聞いてきました。生徒は十分な食料がなく、きれいな洋服もなく、生活のために家族の手伝いをしなければなりません。そのため学校に遅刻したり、学校自体を辞めざるを得ない生徒もいます。また、家の近くに学校がないと、遠くの学校まで歩きか自転車で通い、放課後その道を戻って家に着けば、また両親の畑仕事の手伝いなどをしなければなりません。

公立の教師の給与が低いため、高校を卒業しても先生になるために師範学校に行きたがる人は多くありません。もっと給与が高くて、事務所で働くような仕事を欲しがります。多くの教師は教えること自体にはあまり労力を注がず、生活を支えるために他の仕事をしています。プノンペン市内の多くの学校では、教師はプリント教材や食べ物を生徒に売りつけたりしています。また、試験の点数や合格、不合格はお金次第でなんとでもなります。昨年の総選挙の後、政府は教師の給与を上げることにしましたが、まだ十分ではありません。

JHPで働き始めて良かったことは、様々な場所に行くことができ、地方の人々の生活や、教育の現状を見ることができることです。また、日本の皆さんがカンボジア人を教育の面だけでなく、道路建設や医療など多様な分野で支えてくださることが、本当にうれしいです。ありがとうございます。日本がもっと栄え、そして地震などの自然災害に合わないよう祈っています。ありがとう、日本!

サラディー(愛称:ディーディー)

最近こんな感じです

7月10日(金)東京事務所 清国将義

JHP日記に約10ヶ月振りの登場です。
最近はこんな事してました〜

去年のGWから始めたジム通いは、飽きる事無く続いています
体脂肪9%台と割れた腹筋を維持するのってホント大変。。。
ダイビングには、前ほど行けません(ありえない…マジ号泣…)
去年はたったの6本、今年も4月末に行った沖縄だけ
今年は9月にガッツリ潜っちゃうつもりです

愛車を売りました。月に数回しか乗る時間が無いのに税金取られるし
買い取り業者5社が、自宅のガレージで買い取りオークション
自分の車の値段が目の前でどんどん上がっていくのって不思議でした。同時にかなり愛着があったので寂しかったかな
売れたお金でバイクを買い、最近はバイクが足になってます

事務所の引越しが終わって1ヶ月ですが、今度は自分が引越しします。
今月中に出来ないと、8月はカンボジアなので、9月になっちゃうって事でちょっと焦ってます。
横浜市内での引越しですが、賃貸マンション探してたのに、何を血迷ったのか、2DK買っちゃいました!!!!某駅から徒歩4分です。
これで借金王…
ちなみに、結婚するわけではありません(←これ、何回も質問されてるので)

といった感じで、相変わらず完全にプライベート重視の生活をしています。

王立芸術大学の歩み

7月3日 プノンペン事務所 イェン・エンタレア

 王立芸術大学は文化芸術省の管轄下にある高等教育機関で、100年程の歴史があります。王立芸術大学は現在に至るまで、芸術家育成のために重要な役割を果たしています。

 王立芸術大学は舞踊、考古学、建築、音楽、美術、5つの科に分かれています。1917年シソワット王が当時の芸術家に学校を設立するように命じ、「サラーラチャナ」という名で設立されました。アンコール朝からの歴史的建造物を保全し、また新世代の芸術家を育てるために、フランス人芸術家が多く活躍しました。

王立芸術大学の設立にあたって、王は遺跡の保全が専門のBernard Phillip Gozolierというフランス人考古学者と、プノンペン国立博物館館長(カンボジア人)に研究を命じました。Gozolier氏は芸術品の収集や、次世代の芸術家育成のための書類作成に尽力しました。1918年、「サラーラチャナ」に初の生徒が入学しましたが、わずか20名で、フランス人を長とする寄宿舎に滞在していました。

モニボン王時代(1942〜43年)、日本がカンボジアを占領し、スザキ氏という日本人画家がGozolier氏に代わって「サラーラチャナ」学長に就任しました。1946年、ノロドム・シハヌークヴァラマン王時代に、「School of Royal and Fine Arts」と命名された後、ロンノル時代には、「Royal University of Fine Arts」と改名されました。

1980年代、ポルポト時代が終焉し、文化芸術省は昔の芸術家を呼び戻し、王立芸術大学を再生させました。1989年、UNTAC統治下のもとで行われた第1回総選挙が行われ、王立芸術大学はノロドム・シハヌークヴァラマン王のもとで、美術、考古学、音楽、舞踊、建築の5つの科に分かれることになったのです。

例えば、美術科は高等部と中等部に分かれています。中等部は5年間で、絵画・広告画・古代絵画・彫刻・漆・木材彫刻・銀製品彫刻・布装飾・ 皮革彫刻・陶芸・石材彫刻・鋳造 の12の専攻に分かれています。また、高等部は4年間で、絵画・彫刻・建築・広告画の4つの専攻に分かれています。

隊員たちのその後

6月26日(金)東京事務所 中込祥高

金七倶楽部を立ち上げて半年が経つ。ほとんどの人は知らないと思うが、JHPの社会人ボランティアのOさんと私が細々と広めている。今は活動隊参加者のその後を追いかけるインタビューをメインの活動にしている。卒業して社会人になった彼ら、彼女らは今何をしているのか? 今もボランティア活動をしているのか? そもそも元気なのか? 疑問は尽きない。個人的には、カンボジア等で活動したことがどのように生かされているのか具体的な話を聞いて、それを多くの人に知ってもらいたいと思っている。ボランティア派遣の意義とは? 難しい議論や解釈よりも生の声を聞いたほうが早いのでは・・・。先日は4人目のインタビューを済ませ、ただ今テープ起こし作業中。過去のインタビューも掲載しているので是非チェックを!
⇒http://www.jhp.or.jp/sanka/manabu/kin7/kin7_090327.html

  最後に、かつての学生ボランティアの皆さん、ぜひ金七倶楽部のインタビューに協力してください。公開インタビューなので誰でも参加可能です。金曜日の夜7時にお待ちしています!

古きものと新しきものが共存する横浜が開港150周年を迎えました

6月12日(金)東京事務所 伊藤多栄子

1859年(安政6年)に開港して150周年を迎えた横浜。
横浜の発展の歴史が港とともにはじまり、横浜各地区で記念イベントが開催されています。主会場のベイサイドエリアは150年前に開港した横浜の海や港を背景にこの長い歴史を振り返る展示や、子供たちとともに未来を考えるブースなどさまざまなイベントが行われています。
ヒルサイドエリアは7月4日から横浜市の北西部、緑区と旭区にまたがるズーラシアに隣接している森林公園の中に、竹の大屋根、竹の海原があり樹木や花壇や広場が造られ地形や風景をいかして、棚田や段々畑なども造れて横浜の原風景を再現しています。このエリアは公募で集まった市民スタッフが中心となって創っています。横浜生まれ横浜在住の私としてはとても楽しく嬉しいイベントが盛りだくさんです。
横浜には横浜を代表する歴史的建造物がたくさんあります。中でも大好きな建物は中区南仲通にある神奈川県立歴史博物館、日露戦争が始まった1904年に横浜正金銀行の本店として建てられたもので関東大震災では1階から3階の内部と屋上のドームは焼失したものの、建物本体は地震の揺れに耐えました。設計者は妻木頼黄氏で東京駅や奈良博物館、迎賓館、横浜赤レンガ倉庫など明治時代を代表する建築家です。
  建物のシンボルであるドームは、1967年に復元され、八角型のドームには不思議な「魚」の装飾が見られます。これはシャチホコではなく「ドルフィン」で西洋では海にちなんだ建物などによく見られる装飾です。次に、中区本町にある旧第一銀行横浜支店は1929年に建てられた古典主義様式の建築物を移築、復元した重厚なトスカーナ式の列柱を並べた半円形のバルコニーが特徴の美しい建物です。しかしバブル後に進んだ銀行の統廃合で不要となり大切なものが失われる危機かありましたが企業を巻き込んでセンターを開設、この建物の特性を活かしアートの創作や発表の場として活用し人々の出会いと市民向けの案内機能や交流機能を充実した「ヨコハマ・クリエイティブシティ・センター」として生まれかわりました。創造の担い手たちの活動をサポートするなんてとても素晴らしいことです。これこそ古きものと新しきものとの共存です。最近高層ビルが勢いよく上に上にと伸びてゆく・・海の風の通り道や丘や山の風の通り道をふさいでいることが多く見受けられる・・下町の路地に咲く紫陽花の花は心をなごませてくれる、人にやさしい明るく爽やかな街・町を心がけたいですね。
写真@神奈川県立歴史博物館
写真Aヨコハマ・クリエイティブシティ・センター
写真B横浜赤レンガ倉庫

カンボジアのお辞儀の仕方(サンペア)

6月5日(金)プノンペン事務所 シン・サレット

昔からカンボジアにはサンペアと呼ばれるお辞儀の作法があります。今日の社会でもサンペアは重要で、尊敬、感謝、謝罪を表すことができます。また、初対面の人とサンペアを行うことにより、友好的な雰囲気を作り出すことができるのです。

サンペアは5つの格好に分かれます。
1. 正座を左右どちらかに崩し両手を合わせる。
2. 正座を左右どちらかに崩し、上半身を左右どちらかに傾け、両手を合わせる。
3. ひざをつき、両手を合わせる。
4. しゃがんで、両手を合わせる。
5. 立ったまま、両手を合わせる。

また、両手を合わせる位置により、意味合いが変わります。
A. 両手は胸の高さ、人差し指があご先に来るように
→一般人が僧侶の前で読経を聞く時など。
B. 親指があごを支え、人差し指が口元に来るように
→地位や年齢が同じ相手に。
C. 親指が口元、人差し指が鼻先に来るように
→子どもが両親や教師に挨拶する時など。
D. 親指が鼻先、人差し指が両目の間に来るように
→若者が村長に挨拶する時など。
E. 親指が両目の間に来るように
→一般人が教師に挨拶する時など。
F. 親指が眉毛の間、人差し指は前髪の生え際に来るように
→一般人が国王に挨拶する時。
G. さらに両手を上へ
→神や仏に祈る時。

90歳を迎えたやなせたかしさん

5月15日(金)東京事務所 松本伸夫

 5月5日毎日新聞朝刊の「ひと」欄にアンパンマン誕生40年のやなせたかしさんが登壇、感慨深いものがありました。私が7年間の毎日新聞パリ特派員を終えて帰国していち早くお知り合いになったのは、やなせさんだったからです。1986年フランスのメルヘン漫画家、レイモン・ペイネさんの美術館が軽井沢に完成、二人の対談のアレンジのためでした。間もなくアンパンマンが、いずみたくさんの手でミュジカル化され、テレビでも放映され、子どもたちの間で爆発的な人気キャラクターとなり、わたしもそのファンとなっていきました。
 いま90歳を迎えてもなお現役のやなせさんのファンタジーに対するみずみずしい気持ちは衰えていませんが、私が現在ボランティア活動のお手伝いをしていて、ヤナセワールドに強い興味を抱くのは、アンパンマン・スピリットです。「ぼくは飢えた人を救うのではなく、(自分が死ぬことによって)飢えた人の中にぼくが生きるのだ」という言葉は、やなせさんの正義に対する信念をやさしく表現したもので共感を覚えます。今回東京文京区の弥生美術館でやなせ展(6月28日まで)を見て驚いたのは,サングラスをかけた「やなせ兎」でした。「臆病で逃げ足が速く、闘争心がなく、闘う武器も持たない。そのへんがいいなと思っている」とやなせさん。民間ボランティア・スピリットここにあり、という感慨を持ちました。
写真は@やなせ兎とA制作中のやなせさん

クメールの結婚式の習慣

5月8日(金)プノンペン事務所 ヒム・サヴィー

カンボジアはまだまだ古くから伝わる習慣を大切にしている国です。結婚式の習慣は、場部フンテアン王とニアンリエウイー女王が結婚した時代に作られたとされ、現在でも続いています。
15歳から18歳までの男性と女性が結婚する際は、以下の行事を行います。
1. チュロルマロッブ(女性は自分の部屋で、サフラン粉を使ったマッサージを受ける)
2. 結納
3. 男性は女性の実家で夜中まで奉仕をする。
4. 男性は女性の母親にお金を積む。
5. 結婚式

しかし、現在では1と3はだんだん行われなくなっているようです。

最近のカンボジアの政治状況

5月1日(金)東京事務所 吉岡健治

フンセン首相の人民党は昨年の国民議会選挙で123議席中3分の2以上の90議席を取りました。昨年は途中まで経済も好調でフンセン首相はNGOの支援がなくてもやっていける自信を深め、10年前からの懸案であったNGO法の成立を目指しています。
フンセン首相は1981年に外務大臣に、1985年に首相に就任以来30年近く政権の中枢にあり、実質的な権力者になっていますが、形の上ではシアヌーク国王の息子を演じ、国王の息子のラナリット元首相以上に国王の信頼を勝ち得てきました。また人民党の序列ではヘン・サムリン下院議長、チア・シム上院議長の次の第3位に甘んじ、独裁者ではない振りをしてきましたが、実質的には開発独裁者への道を歩んでいます。このようなフンセン首相にとって一番思うように行かなかったのは国連機関、世銀、NGO等のドナーの存在でした。支援なしには復興は不可能なのでドナーの要求する民主化や人権に関する要求を渋々飲んできたのです。
しかし、この数年間中国や韓国からの支援額が急増し、カンボジア経済が毎年10数パーセントのGDP成長を続けた結果、ドナーの支援なしでも発展できるという自信が出来、口うるさいドナーの口を封ずるNGO法の成立を目指し始めたわけです。中国や韓国の支援はインフラや不動産業に集中していますが、これらのドナーは民主化や人権問題には全く触れず、フンセン首相を中心とする権力者の利益とも一致しています。
人民党はもともとクメールルージュとは別の流れを汲む共産党でしたが、1981年に名前を人民革命党に改称し、1991年に社会主義から決別し、それ以降はイデオロギーにとらわれない実利的な政治運営を行う党になりました。しかし、党の運営組織は党内の序列が示すように共産党時代のままであり、中国のように党指導部の多くが国家機関の要職を兼任し、直接政策の履行にあたっています。しかも人民党は郡と村の中間の行政単位であるコンミューン長の98%、村長のほぼ100%を抑えており地方を完全に支配しています。したがって党の方針が国政を支配する1党独裁の傾向が強まっています。今は選挙により人民党が選ばれ政権を担当していますが、仮に国民が人民党以外の党を選んだ場合、スムースな政権交代が行われるか不安です。したがって国際社会はまだ当分、クメールルージュ裁判の進展を含めカンボジアの政治状況を監視する必要があります。当会も参加しているカンボジア市民フォーラムでは今年度の活動の中にNGO法成立への動きをウオッチし、必要なら反対のアドボカシ―活動を行うことを検討しています。

プノン・ダ

4月24日(金)プノンペン事務所 リー・ソムニット

プノン・ダはカンボジア最古の遺跡と言われています。それはかつての扶南の首都があったとされるタケオ県アンコールボレイ郡コークトゥロークコミューンにあり、プノンペンから102キロ、車で約3時間で行くことができます。タケオの中心地からは24キロですが、雨季になるとボートで2時間かけていくことになります。

プノン・ダ寺院は6世紀頃、扶南王朝末期、ルットラックヴァルマン王によって建立されました。四方を囲む壁はなく、建物は北を向いています。寺院の四方はほとんど壊れており、乳海攪拌の彫刻は2つに割れ、ビシュヌ像は倒されています。

プノン・ダの谷にはプノン・ダ様式と呼ばれる5人像や、クメールルージュ時代に火葬場として使用されたものもある、5つの洞窟があります。また、プノン・ダの南西500メートルのところに、砂岩で造られた別の寺院があります。北向きで戸が1枚と窓が5枚あり、「アスラム・マハー・ルセイ」というインド様式の寺院です。

プノン・ダへのアクセスは、洪水が多く、道がトラックや牛車により壊れており、非常に難しくなっています。しかし、扶南時代のカンボジアの遺跡を見ようと、国内外の観光客が訪問しています。1979年以降、タケオ県により、「15番運河」と呼ばれる運河がタケオの街からアンコールボレイ郡まで引かれました。これによりボートによるアクセスが簡単になりましたが、陸路でのアクセスは未だに困難な状況です。

ボランティア

4月17日(金)東京事務所 平松 千波

 私がNGO活動にかかわるようになって4年目を迎えました。 私にもできることは、、、と、イベントボランティアがきっかけです。

JHPでもボランティアが大活躍しています。 先日おこなわれたマンスリーミーティングに私も初めて参加しました。 先輩ボランティアが事前に話し合いの項目、タイムスケジュールをあらかじめ組んでいたので、とてもスムーズな進行で した。

この日は最後にグループに分かれてイベントで使う小学生向けの活動紹介パネルづくりを行いましたが、1時間ぐらいであ っという間に手書きの紙芝居が出来上がり、リハーサルまでできてしまったのには恐れ入りました!

翌日、このパネルを使った活動紹介も上手くいったみたいです。 http://www.jhp.or.jp/sanka/yomu/onlinenews.html#090411

得意分野は人それぞれですし、ボランティア活動に対する思いも、 人それぞれだと思いますが、 私はボランティア活動を通じて世界が広がり、経験を重ね、 むしろ得たものの方が多いと感じています。

皆さんも余裕がありましたら、身近なところでボランティア活動を 試してみてはいかがでしょうか。


時は金なり、銀なり

4月10日(金)プノンペン事務所 マオ・カナリン

 今日では、多くのカンボジア人が時間の価値を考えず、気ままに、非効率的に時を過ごしている。そんな彼らの将来はどうなるのであろう。時間を浪費してばかりで、生活レベルの改善を図ろうとなぜしないのか。

 以前仕事で地方に行った時に出会った村民について触れてみたい。私は仕事の合間の時間に、村民らと会話をすることがある。そこである家族に質問をした。生活レベルの低そうな家だった。毎日何をしているのか、仕事は何をしているのかを尋ねた。答えは、農家をしている、とのことだった。

 ほとんどのカンボジアの農家が年に1度だけ、雨季に農業を営むのが習わしだ。そして収穫した米だけを頼りに生活を営んでいる場合が多い。各家庭、大体1ヘクタールほどしか農地を持っていないのではないだろうか。だから収穫量は少ない。それで家族を養うのは大変だ。余分な出費はできない。各家庭、平均6人ぐらいは子どもがいるだろうし、学齢児が大半をしめてもおかしくない。

 収穫期が終わると、自由気ままに過ごしたがる農民は多い。事実、村から村へ、知人や親戚を訪れたり、男同士で集まって酒を飲んだりしている。中には子どもを学校に通わせるのを止め、仕事をさせる親もいる。まだ10代にも達していない子どもでさえだ。

 若い世代に目を向けると、彼/彼女らもまた、あまり時間の使い方を考えていない。いや、まったく考えていないと言っても良い。散歩したり、友達と会って、酒を飲みに行ったり、カラオケに行ったりなどしている。彼/彼女らの将来が非常に心配である。

 学校では、時間の有効利用のことなど、教えてくれない。先生に問題があるのか、例えば、何時までに宿題は終わらせましょう、などの指導はしてくれない。授業が終われば、子どもを置いてすぐにどこか消えてしまう。もっとクラス外で子どもと接し、勉強以外に教えることがあるのではないだろうか。

 ここで私から、若い頃から身に付けておけば良いと思う習慣について書きたい。これを行えば、将来の見通しはぐっと明るくなると思うし、人生に磨きがかかると思う。

- 過去自分を怠け者にしたり、時間を浪費してしまったような、何か悪い癖を持っていれば、それを改めること。そして、何かを行う前によく考えること。何かを行ってから考えるのではいけない。
- 毎日、自分自身が何をしているのか、認識すること。
- 毎日のスケジュール管理をすること。
- 農民ならば、もし時間があれば、野菜など、米以外に家族の収入となるようなものを育てること。
- 生徒ならば、放課後、語学学校や、何か好きな教科の勉強をすること。もし語学学校などに通うお金がなければ、インターネットや新聞を活用し、貧しい学生に奨学金を支援しているNGOなどの情報を探すこと。
- 先生ならば、生徒に有用な時間の使い方を教えること。 読者の皆さんもお試しあれ。きっと効率のよいタイムマネージメントができるでしょうし、将来の成功へと繋がることでしょう。


ズーラシア

4月3日(金)東京事務所 岩本宗孝

孫の幼稚園が春休みなので、せがまれて動物園に行きました。私の住まいに近い「横浜ズーラシア」というところですが、平日にも関わらず、大勢の入園者がつめかけており、人気のある動物のスポットはしばらく待たなければ見られないほどの人だかりです。
びっくりしたのは、少子化、少子化と言う割に何と子どもの多いこと。日本にもこんなにたくさんの子どもたちがいたんだ、と感慨しきりでした。
ここの動物園の特徴はなんといっても、広い敷地の中をアジア、アフリカなどゾーンに区切ってその地域の動物をまとめて、ただ動物を住まわせるだけでなく、緑や水をふんだんに配置して、地域ごとの環境を作っていること、そして、動物達のすぐ近くでその生態を眺められるような場所を設け(生態展示というそうです。)た元祖であることなど、でしょうか。旭山動物園など、最近の施設では珍しくなくなっていますが。
動物達の中で、なんといっても一番人気は「オカピ」でしょうか。一見、シマウマのようにも見えますが、実はキリンの先祖にあたるような種別だそうで、世界三大珍獣の一つ(ちなみに他の二つはジャイアントパンダとコビトカバ)といわれ、しかも20世紀になって初めてその存在が確認されたということです。中央アフリカのごく一部にのみ生息していますが、日本ではここと上野動物園でしか見られません。特にズーラシアでは三世代の繁殖に成功したことで有名です。写真のように非常に凝った、しかも優雅な毛並みをしており、また、その態度もゆったりとしていて、見飽きることがありません。わが孫達もこれを楽しみにしていたので大満足でした。
子ども連れでもなければ、なかなか動物園を訪れる機会もありませんが、大人の私達もとても癒される楽しい思い出となった一時でした。皆さまもぜひ一度お出かけください。

近代的なカンボジアの交通ルール

3月6日(金)東京事務所 奥原朋子

最近、カンボジアの現地スタッフが加入している保険の規約を訳す作業を進めている。その中に「新しい交通ルールが施行されたから守らないと保険は適用になりませんよ」というような記述があって、特筆すべき新ルールが"Important Notice"として記されている。例えば、「交差点の中ほどで行き詰まってしまうようなら、青信号でも交差点に侵入してはいけません。」とか、「車間距離を充分に取りましょう。スピードが出ているときは可能な限りたくさん取りましょう。」とか。でも、これってどれくらい有効なルールなんだろう?

現地を一度でも訪れたことのある方ならおわかりのように、カンボジア、特に都市部で運転しようと思ったら、近代的なルールなんて、あってないようなもの。実際プノンペン在住の女性がある雑誌で「交差点で曲がる場合は、前車との車間距離を10cmくらいにつめて、いかにあらゆる方角から来る車やバイクに頭を突っ込まれないようにするのかが通過のコツ」と言っている。強烈!こんな状況で新ルールが力を発揮するなんてとても思えない!

少し前に、当会の「小山内美江子・国際ボランティアカレッジ」で講義をしてくださった柴田紀子検事(2008年3月までJICA長期専門家としてカンボジアに派遣)が、「カンボジアでは今多くの国、国際機関が法整備支援に関わっているけれど、支援は一方的な伝授ではダメです。」というようなことを話されていた。なるほど。あの交通ルールも、「一方的な伝授」のようなもの、かも?

支援をするって難しい。相手のため!と鼻息荒く向き合うんじゃなく、ゆったり同じ方向を見て、一緒に進められる支援ができたらいいなと思う。でも、事故が増えていると聞くプノンペン市内の交通事情は、早く改善されるといいな、と、勝手なことを思ったりもする。


第3期カレッジ報告

2月20日(金)東京事務所 池谷一夫

 昨年9月から開講した「小山内美江子 国際ボランティア・カレッジ」は前半の講義が終了し、後半のハイライトU[カンボジア現地研修]に進展しています。
今期の概要報告しますが、履修生は ほぼ定員の29名でスタ−ト、福島、千葉、静岡等からのエントリ−があり、多くの女性の積極的参加が特色でした。
港区・外務省関連機関等に助成・協力を戴き、講師は官庁、大学教官、文化人、各界専門家等、多士済済50名が担当されました。
 講師先生方の印象的なひとこと「この事業はかねてよりの懸案事業」、「カンボジアは肥沃な土地を有し、農業国を目指すべき」、「最近の大手企業は真っ先に派遣社員等を削減するが、誤りで最終手段とするべき」、「青春を命を賭けた活動、カンボジアで殉死された一ノ瀬泰造さんを忘れないで!」等々感銘深き内容でした。 
 また、履修生は「国際協力について深く学び、大学の授業より有益でした」などが寄せられております。
 長期間、皆様に大変お世話になりました。

どうして子どもは親の言うことをきちんと聞くのでしょうか?

2月13日(金) プノンペン事務所 チャリヤ

子どもは新しいものを見ると、たくさんの質問を親や周りの人に投げかけます。誰も周りにいない場合は、その危険性も省みず、直接触ってみようとします。子どもは好奇心が旺盛で、何でも新しいものを知りたいと思っているのです。

教育を受けることによって知識が増え、将来国の発展を担う人材が育成されます。音楽という教科は意味がないので、子どもに勉強させる必要がないと考えている親がほとんどですが、子どもはまっさらの紙で、親や周りの人たちがそれに色付けをしているようなものです。子どもは善悪の判断もできず、周りの人が一緒に道を歩いてあげなければならないと思っています。もし子どもが将来何になりたいかを親が分かっていれば、子どもは喜んで親に従うでしょうけれど、子どもにどうして親の言うことをきちんと聞くのか聞いてみて下さい。

音楽はストレス発散や子どもの遊びではなく、子どもの知性を高めます。私が小学校3年生から6年生の生徒が鍵盤ハーモニカを弾いたり、歌を歌ったり、楽譜を読んだりしているのをみて、大変感動しました。お昼休みの時間になっているのに、生徒は音楽をやめて家に帰ろうとせず、笑顔で演奏していました。とても楽しそうに演奏する様子を見ることができてよかったです。それはとても美しい記憶で、また同じ光景を見たいと願っています。私がもしその生徒であれば、自分の親などに演奏を見てもらい、どう思うか聞いてみたいと思うでしょう。これは音楽マジックです。いくら音楽が好きな生徒でも、きちんと宿題や家事をこなします。そして、学校でも家でも聞き分けがよく、我慢強く、柔和で、協調的な子どもに成長します。それは、演奏を通じて、グループワークを経験するからです。

私はカンボジアの生徒の保護者が音楽教育について理解し、子どもに音楽を勉強させてほしいと願っています。

写真:12月21日にプノンペンで開催された、「第1回JHP青少年によるコンサート」の一場面。アンコールユースオーケストラの演奏に合わせて、200人以上の小学生の大合唱が会場に響き渡りました。

自分のしたいこと、本当の自分、自分探し。

2月6日(金) 東京事務所 木村晋也  

 そんな文句を電車のなか、街のなか、テレビのなかでよく見かける。僕が想う自分、周りが理解する自分。でも自分ってなんだろ? 10年以上前に、どうしても外国で1人で暮らしたくて、日本食レストランで皿洗いのアルバイトをしながら英語の学校に通っていたころ、夜中に突然目を覚ました。
「歯が痛い・・・」
だましだまし、歯が痛いながらも英語を勉強しながら皿を洗う生活。 「虫歯も僕の肉体の一つの細胞だ。でもなんで自分の身体を痛めつけるんだろう。虫歯菌が全部の歯に行き渡り、他の身体も蝕みはじめ、身体全体に転移するのか。身体が滅びたら虫歯菌だって一緒に滅びるんじゃないか。なんでこんなことをするんだ。虫歯菌の意思は僕の意思ではない。でも虫歯菌は確実に僕の中で暮らしている。僕の身体に有るならば僕じゃないか。僕が僕を滅ぼすわけには・・・」 と治療費のないまま、夜眠れないまま(虫歯になると激痛が夜中に走るもんです)、そんな言い訳を周りにしながら過ごす日々(じゃあなんでお前は髪を切るんだ、髪の毛だってお前の身体に有るじゃないか、などの反論も受けました)。

 教訓 自分とはわからないものである。いろんな細胞で成り立つ、いろんな意思が集まる僕の集合体。世界も同じである。集合体である自分も世界を織り成す一つの意思。虫歯菌にだってなりうるし、大統領にだってなりうる。僕はあなたであなたは僕。君の嫌なところの発見は僕の嫌な面を理解すること。平和な世界とは健康な身体。相互理解と日頃の健康が大切である。そして子供は希望の象徴である。日々細胞が生まれ変わり、世界は新しくなる。

 結局、気絶しそうな痛みのため、身体平和のため、治療のため歯医者へ高額な金額を出費。皿をいつもより多く洗う日が増え、髪を切る暇がなくなり、視覚的に類人猿のようになった新しい僕を理解する周りの人種は変更され(視覚的普通なヒト→視覚的ヒッピー)、以前の僕はどこまで今有るのか。周りが変わると自分も変わる。細胞は日々新しくなるもの。ホントに自分って探せるの?

プノンペン事務所の庭

1月30日(金)プノンペン事務所 中山中

 故・馬所長はよく庭を耕して野菜を栽培していました。今はあまり手付かずの庭ですが、それでも様々な植物が植えてあります。お手伝いのおばさんが水をやったり、ローカルスタッフのパリーさんがちょこちょこ手入れをしてくれます。

 写真の一枚目はジャックフルーツ。大分大きくなってきました。でもまだ後数ヶ月しないと食べられません。2枚目はサトウキビ。土壌が悪いのか、あまりおいしくないとの噂で、誰も食べようとしません。もう1年以上ほったらかしです。3枚目は唐辛子。カンボジアの唐辛子は小ぶりですがものすごく辛い!たまに摘み取って、料理に使っています。4枚目は現地語でジュージュービーという、ちっこくて酸っぱい林檎みたいなフルーツです。そしてバナナ。庭には3種類のバナナがあり、写真はグリーンバナナという種類で、甘くて、私は3種類の中で1番好きです。6枚目はニョーという植物。何かの薬として使えるのだとか。そして、残念ながらこの時期実がなっていないので写真は撮りませんでしたが、龍眼(ロンガン)もありますよ。事務所の庭で、仕事中のおやつが採れるなんて、素敵。







JHPを愛する皆さま、はじめまして

1月23日(金)東京事務所 犬塚恵太

去年の10月終わりに、地元愛知県から7年勤めた会社を辞め東京にやってきました。
カレッジを受講するためだけではなく、もう1つ理由はありますが、勢いだけで飛び出してきました。
一人暮らしも初めてな上、大都会東京での一人暮らし。不安はあったけれど、とにかく必死に生活スタイルをつくっていたら、いつの間にか不安も忘れ一ヶ月、二ヶ月と過ぎていきました。
そんなある日のこと、コンビニでおでんを買って帰りました。コンビニではなんの違和感もなくおでんを選んでお会計を済ませたのですが、食べようとした次の瞬間--------味噌がない!!ことに気づきました。
地元愛知では「からし、味噌お付けしますか?」と聞かれるけれども、当たり前のように味噌をつけて食べていた僕からしたら、少しカルチャーショックをうけました。
今まで旅行でしか他の文化に触れてこなかったので、生活してみると改めて気づくことがあります。
そして、地元が一番と思っていた僕の気持ちが、徐々に東京色に染められつつあります。
でも、電車の混みようは嫌になります。お構いなしに乗ってきますね。
くじけそうになった時、支えてくれるのが地元の友から贈られたこのメッセージ付サッカーボールです。
まだ東京での生活は続くけど、楽しんでいきます。




私の仕事

1月16日(金)プノンペン事務所 ティム・バリー

日本はカンボジア開発支援において、中心的な役割を担っています。様々な分野で日本のNGOが活躍しており、その中でも教育分野において、小山内美江子代表理事が率いる我々JHPがあります。
 JHPは1993年から学校建設を始め、これまでに校舎220棟1042室、トイレ161棟708室、そして71基の井戸を建設しました(建設中のものを含む)。

 JHPは子ども達が何を必要としているかを考え続けます。子ども達が学校に行くのが楽しみになるように、校舎を建設するだけでなく、音楽と美術プロジェクトも行なっています。また、子ども達は遊ぶことが大好きですから、学生ボランティアがブランコを作ってくれます。これまでに76基のブランコが立ち上がりました。また、学生ボランティアは、学校で子どもたちと遊んでくれます。

 ですから、いくつかの地域では、子ども達は日本人に慣れ親しんでいます。このような活動がずっと続くといいなと思います。

2008年後半を振り返って

1月9日(金)東京事務所 佐野太悟

明けましておめでとうございます!本年が皆様にとって飛躍の年でありますように。

思い起こせば半年前からインターンとして会の活動に関わり、多くのことを学びました。国内の活動では大きいもので天満敦子さんのコンサートやチャリティーオークションパーティ、国外では8月隊と一緒にカンボジアに行くことで現地の状況をより詳しく知ることができました。国際協力NGOとしてのJHPの活動がどのようにして国内外で結びつき、社会に貢献しているのかを色々な視点から学ぶことができました。プライベートでは空いた時間のほとんどをアルバイトに費やしましたが、忙しくも充実した1年となりました。
インターンとしての勤務も残り1週間と迫り、今は来月に迫った留学の準備が忙しくなってきています。しばらく日本を離れることになりますが、日本を発つまでの間や帰国時にはボランティアベースで会に携わっていきたいと思います。
大学院での専攻は国際公衆衛生学という分野で、JHPの主たる活動である教育支援とは直接的なかかわりはありませんが、途上国開発という枠組みの中ではお互いに深い関係にあります。この半年間、会で学んだことを大学院の講義、そして将来にわたり生かしていきたいと思います。

思い出はいつまでも心の中に

12月26日(金)東京事務所 伊藤多栄子

横浜市は来年開港150周年・どこの都市も最近とみに様変わりが激しく進んできた。私は横浜生まれのハマッ子、横浜大好き人間です。海・山・川・丘・に恵まれていろいろな分野でも発祥の地で有名な横浜、アイスクリーム、競馬場、ガス灯など色々とあります。ご当地言葉も「じゃん」、言葉の語尾にじゃんをつけます。
そうじゃん、ちがうじゃん、あるじゃんと若者からお年寄りまでよく使う言葉です。   
   私が大好きな町伊勢佐木町、通称・ザキともいいます、演歌でもよく歌われまた人気デュオ「ゆず」の生誕の地として知られている伊勢佐木町は子供の頃から通い馴れたお思い出の場所。横浜市認定歴史的建造物の横浜市中区伊勢佐木町のシンボル的存在だった老舗百貨店横浜松坂屋が10月26日閉店し、144年の歴史に幕を閉じました。横浜松坂屋は1864年に「野澤屋呉服店」として創業し、1921年の本館建設以来ザキ・伊勢佐木町の顔の役割を担い続けてきました。閉店に伴い店内撮影会に参加しました。大正10年(1921)に建てられた本館は国内の代表的なアール・デコ様式の装飾が随所に施されていて現代建築の重鎮でもあった夏目漱石の義弟の鈴木禎次氏が設計に参画しています。館内で目をひくのがエレベーターの階数表示板とエスカレーター側面の装飾は直線や弧を多用したイナズマ模様や流線型モチーフといった幾何学模様がいたるところにアール・デコ特有のデザインが施されています。また屋上には野澤屋の商標マーク入り入九のマークの排水溝があり、店内4階に松坂屋郵便局が併設していたのには驚きでした。144年の歴史に幕を閉じるのは辛いこと、売上げの落ち込みや建物の老朽化が進んだことから閉店を決めたのだがこの歴史的建築物を壊すのは簡単でも町のシンボルとしてできるかぎり保存してほしいと心から願がっています。昨今の日本人は古いものを活かしたり利用するのがとても下手、人間だって同じこと安心・安全・人に優しい世の中にしたいですね。
(写真上:松坂屋郵便局 写真下:エレベーターの階数表示板)

カンボジア伝統楽器・トロー

12月19日(金)プノンペン事務所 新屋由実子

このJHPの新ホームページのスタッフ紹介で、「現在はバイオリンを練習中」と書いたのですが、「現在はカンボジア伝統楽器・トローを練習中」と訂正が必要になりました。「トロー」というのはクメール語の呼び名で、中国の二胡に似た楽器と言われています。2本の弦の間に弓がはさまっており、弓の両面で2本の弦をこすって音を出します。この楽器はカンボジア国内でも広く親しまれており、音楽プロジェクトに参加している教員の中にも、トローを弾ける人が何人もいます。そして、プノンペンの観光客に人気のマーケット、セントラルマーケットやロシアンマーケットでも安価で入手できます。
 トローのレッスンを開始する前、まずは楽器を買うことから、ということで、先生に楽器屋さんに連れて行ってもらいました。すると、素人目では分からない、購入の際のチェックポイントがあることが判りました。今後トローを購入希望の方のために、そのチェックポイントを紹介したいと思います。
・ 2本の糸巻きが同じ長さであること
・ 2本の弦の巻き方。上の弦(高音)は体から離れた方から、下の弦(低音)は体に近い方から巻いてあること。
・ 駒がきちんとついていること。
・ 軽すぎないこと(ある程度の重さがないと、演奏しにくい)。
以上は満たすべきチェックポイントですが、以下は、カンボジアらしく、「気にしすぎてはいけないポイント」です。
・ 弓毛(現在のものはほとんどがナイロン製)と弓の接続に、ビニールテープが使われている場合があること。
・ 棹の上部が一本物ではない角の場合(たいてい一本物ではありません)。
・ 共鳴胴がココナッツだったり、木材だったり、形も筒状のものや球状のものがありますが、大型のものがトロー・ウー、小型のものがトロー・サオと呼ばれています。私が習っているのはトロー・サオの方で、トロー・ウーより高音が出ます。どちらのトローになさるかはお好みで。
・ 楽器用のケースは、付けてくれる場合でも単なる布袋です。写真のようなケースは、オーダーメードになります。
この日記をご覧になった皆さまの中から、カンボジア伝統楽器に興味を持たれる方が増えると幸いです。

ぬかるみから車を出す方法

12月12日(金)プノンペン事務所 メン・サコーン

私達はカンボジアの様々な地域に学校を建てています。ある日、3年前に建てた校舎の視察に行ったときのこと。そこはプノンペンから100km以上離れていて、車で片道4時間、国道を離れるとしばらく悪路が続く学校でした。

写真でもわかるように、私達の車は深いぬかるみにはまってしまいました。これが午前11時のこと。周りに人は少なく、車を出すのに適当な機械やトラックを持っている人はいませんでした。ではどうやって車を出したと思いますか?

牛車です。それしか方法がありませんでしたから。

あなたも同じように牛車を使ってぬかるみから車を引っ張り出したことがありますか?牛車が車を救えるなんて信じられないですって?

冬に何より怖いもの

12月5日(金)東京事務所 清水陽太

JHP・学校をつくる会ホームページ読者の皆様初めまして。
11月よりボランティアとして働き始めることになった清水陽太です。

大学生活との兼ね合いもあり、事務所にいる時間も限られていますが慣れないオフィスワークに悪戦苦闘しながらもなんとか回りの皆さんについていけるよう頑張ります!

さて、季節は師走に入り、僕の大学のキャンパスにもクリスマスイルミネーションが輝いています。ライトアップは綺麗だし、冬に友人らと囲む鍋には目が無い僕ですが、寒いのだけは大の苦手です。道産子の友人が冬の訪れが近づくにつれて元気になっていくのを尻目に、僕のテンションは落ち続けています。そんな冬に何より怖くなるものは、なんといっても「睡魔」でしょうか。そこに時間がある限りいくらでも寝ることのできる僕としては冬の朝の寒さで強くなる睡魔との闘いは、冗談ではなく毎晩就寝前の一大テーマとなっています。どんなホラー映画や、怪談よりも怖い睡魔に打ち勝つ手段、何か良いアイデアを知っている方がいらっしゃったら、是非お昼ご飯をご馳走してでもお話を聞きたいと思います。(まぁホラーも見ないし、怪談もするのもされるのも嫌いなんですが・・・)
当面は睡魔に対抗できる唯一の勢力である食欲に突き動かされて布団を這い出る日々が続きそうです・・・

まったく自己紹介とは言えない内容になりましたが、締めるところはキチンと締めて、寒い冬をの乗り切っていこうと思います。
今後とも末永くよろしくお願いします。


トンプーン族の伝統的な家屋

12月1日(月)プノンペン事務所 リム・ピサール

 世界中に、様々な少数民族と呼ばれる人々が暮らしていますが、私たちの国カンボジアにもみられます。彼らはカンボジア北東部プレアヴィヒア県、ストゥントゥレン県、ラタナキリ県、モンドルキリ県に住んでいて、トンプーン族、クルン族、プラオ族、カンチョー族、チャライ族、カヴェット族、ロン族、プノン族と呼ばれています。
 写真はトンプーン族の家です。彼等の習慣では、子どもが青年期に入ると、両親はこのような家屋を建てます。高い家屋は息子用で、森を自由に駆け回ったり、獣を追ったりできる勇敢な青年に育つことを祈願して建てられるそうです。この家屋は村の中心に建てられるそうです。もう一方は娘が思春期に入った頃に建てられます。それは、彼女が好意を持った人と、二人で過ごしやすいように、建てられるそうです。そして、娘が気に入った人が見つかれば、両親に言って結婚するそうです。こちらの家屋は、両親の家からそう遠くない場所に建てられるそうです。

 今回の話は、9月のプチュンバンにラタナキリを旅行で訪問した際に、現地の人から伺いました。

迷走一路

11月25日(火)東京事務所 芳賀幸子

 多感な高校生であった頃、心の声に耳を傾けずに無理をしていたら病気になった。この歳(45才)になって恥ずかしいのですが、今年はあらためて「心の声に耳を傾けましょう」を意識させられた一年でした。年頭、日記をつけるにあたり日記帳に父から贈られた言葉「真実一路」など、どこに飛んでいってしまったのか。あ〜ぁ、である。そんな落ち込む一年の中にも嬉しい偶然の再会がありました。そのことが、ある方とその人をご対面できる機会を設けることができ、何だか安堵しました。そう言えば、先日もちょっと嬉しいことがありました。JHP理事である立石さん宅のお庭のオリーブの大木。その実りの秋をおすそ分けいただきました。オリーブの実と葉っぱを頂戴し、お店でこの時期目にする新物オリーブの浅漬けに習い試してみるが・・・。渋い、しぶい、シブイ!果たしてこのまま塩漬け、塩水漬けで食べれるのだろうか?!本屋さんで書物を探すが見当たらない。そこでネット検索をしたらヒントが見つかりました。山菜と同じようにどうやらあく抜きが先ずは必要とのこと。その上で塩漬けなり塩水漬けなりの行程になるらしい。かなり長い行程を続けなければいけないようなので、ここでは省きます。12/2のチャリティーイベントを終えたら、今はまだ単なる塩水漬けのオリーブちゃんを大事に面倒みますね。ところで、オリーブはご存知のように平和の象徴ともされていますから、国連の旗にもその枝があしらわれてますね。この機会に知ったのですが、オリーブの葉っぱをお茶にして飲むこともできるそうで、先ずは試してみました。少し苦味がありますが、豊かな緑の香にホッとします。血液循環や糖尿病の方に効能があるらしいですよ。オリーブオイルは消化器や喉にも良いようです。
 先日、JHPを応援くださる方が続けて天国に旅立たれたことも大きな衝撃でした。ジャーナリストの筑紫哲也様は、12/2「チャリティーオークションパーティー」へご寄贈品をご提供いただいて間もなくのことでした。そして「難民を助ける会」会長の相馬雪香様の訃報を新聞で知りました。相馬様は昨秋のJHP15周年記念祝賀会に軽井沢からいつものようにお一人で都内へお出かけになり、ご担当の方と祝賀会へご出席いただいた上、お祝いのご挨拶を頂戴しました。誰もがその凛々しいお姿に感動していた様子が今でも目に浮かびます。お二人のご冥福を心からお祈り申し上げます。
 さて、もうすぐ担当の「チャリティーオークションパーティー」の当日を迎えます。
 今回も会場のご協力をいただくアグネスホテル(神楽坂)で先日打合せのため訪ねると、ちょうどホテル入口にはクリスマスツリーが飾られ、新たにケーキショップを増設中でした。オープンは12月末を予定しているそうですが、詳しくはホテルへ直接ご確認ください。
 限られた人数のチャリティーイベントですが、今年一年の皆さまのお力添えに直接、お礼をお伝えできるよき機会と感謝いたします。ご参加いただけない皆様にはこの場をお借りし、感謝申し上げます。JHP日記も今年最後なので、つい欲張りました。すみません。

(写真:オリーブの塩漬けと塩水漬け&甥っ子のオブジェとタプナード)

はじめました

11月17日(月)東京事務所 大平初美

みなさん、こんにちは。
だんだんと年末に近づいてきましたが皆さまいかがお過ごしですか?

わたしは2008年の目標のひとつでもあった「英語を習う」をやっと始めました。毎週木曜日にJHP事務所から電車で10分くらいのところにある大学の公開講座に通っています。先生はアメリカ人、受講生は10名くらいで国際協力に関心のある人たちが集まってワイワイと笑いも起きながら楽しく勉強しています。ということで、毎週木曜日は仕事を終えてバタバタと教室へ向かうのが習慣になりました。

授業は前半講義で後半はディスカッションやプレゼン、ディベートなど密度の濃い2時間です。シャイなのか意見を話すタイミングをしばしば逃してしまいますが・・・。

テーマは週ごとに設定され、差別、人権、途上国への債務放棄、企業の社会的責任、難民問題など毎回興味深いです。先生の考えや他の受講生からの指摘やアイデアなど、いろんなことが合わさっていつも刺激になっています。帰りの電車では「知らないこといっぱいだなーー」と感動しつつ帰ります。毎週宿題に追われていますがいつも勉強になっています。今週の宿題は「途上国の債務放棄についてオバマ次期大統領にキャンペーンレターを書こう」です。さあて、今週も頑張ろうっと。




きづな橋

11月10日(月)プノンペン事務所 ソンバット

内戦以前、プノンペン市内のバサック川にかかるモニボン橋と、トンレサップ川にかかるチュロイチョンバー橋の2本しか長い橋はありませんでした。しかし1970年代、チュロイチョンバー橋は内戦により壊されてしまいました。

1993年内戦が終了し、インフラが少しずつ復興し始めましたが、教育や情報関係を優先的に進められました。カンボジア初の長い橋は、日本政府の支援により、コンポンチャム県のメコン川にかかる「きずな橋」として完成しました。

1980年から84年まで、私は運輸省でトラックの運転手として働いていました。私の仕事はプノンペンから他の地域へ様々な物資を運び、プノンペンへ戻ってくるというものでした。メコン川を渡るフェリーを待つのに大変時間がかかり、時には3日かかったこともあります。この時、「ここに橋がかかったらいいのに」と夢見たものです。それが今では現実となっています。

きずな橋は、カンボジアの貴重な財産です。

水玉雨合羽の男達

11月4日(火)プノンペン事務所 七條孝司

 カンボジア駐在生活もやっと半年が経過しました、プノンペン事務所の七條です。

 雨季真っ盛りの9月、なんだか朝からしとしと雨が降り続く日が多かったことが印象的でした。
今までの幾回かの出張でも、9月にカンボジアを訪問したことはなかったので、初めての経験です。
 カンボジアは台風も地震もない国。そして降雨は一極集中、短期集中のスコールしか存在しない、と(勝手に)思っていた自分にとっては新鮮な驚きでした。聞くところに寄れば、台風はカンボジア国土を直撃することはないけれど、隣国のタイ、ラオス、ベトナムに接近した際には、その影響を受け、一日中雨が降り続く日が数日あるとのこと。 そうとは知らず、雨具を携帯せず、何度降り止まない雨にやられたことか...

 そうそう、台風の名前についても発見が。 しばしば米大陸を襲うハリケーンには人名が付けられているのは良く聞く話ですが、 アジア太平洋地域の台風にはアジア諸国独特の名前が付けられているということをご存知でしたか?

  日本、カンボジア、中国などのアジア諸国と米国で構成される台風委員会なるものが存在し、各加盟国が予め提案した名前を順繰りに付けているそうです。ちなみに、この制度が始まった年の台風1号の名前はカンボジア語で「象」をあらわす「ダムレイ」と名付けられたとか。2008年度の台風5号はカンボジアにある花の1種で「ナクリー」とのこと。

 日本は代々星座の名前で「かんむり」や「とかげ」、「わし」などが挙がっているそうです。そのほかの加盟国の提案では中国の「悟空」や韓国の「トラジ」など私たちにとっても馴染みの深い名前もありました。

 日本国内の報道では通し番号で行なうことになっているとのことで、日本にいては全く知らなかったことですが、 台風の影響が少ないカンボジアに居るからこそ(?)知りえた、ささやかな喜びでした。

※写真はJHPボランティアの實方さんから、ベトナム土産で戴いた水玉雨合羽(おそろい)。

勝手な提案

10月27日(月)東京事務所 中込祥高

 我が家の長男成和(せいわ)は元気に8ヶ月を迎えています。 カンボジア出張中の10月中旬に、 「成和がハイハイをはじめた」 と妻の久美からメールが入りました。 今までは、ごろんごろんと寝返りをうつように回転するだけだったので、好きな方向を 目指して進めるのは大きな成長です。

 帰国後さっそく、モップのように這いながら、好きなおもちゃに直進する姿を見ました 。飽きればまた別のおもちゃに、そして更に飽きれば誰か来てとばかり大きな声を出す ・・・。行動はシンプルですが、いろんなことを訴えているのだと思うと、気が抜けな い面もあります。実際はそんな事を忘れて遊んでいるのですが・・・。

10月18日には、代々木公園で行われたNPOまつりに参加。2時間位ですがブースの番をし ました。かまっていないと泣いたり騒いだりするので、かえってボランティアの皆さん の仕事を増やしてしまったと思います。お客さんに愛嬌を振りまいてくれた点は、多少 の戦力だったと思います。

 さて、NPOまつりの会場には、フリーマーケットのブース出展が数多くあり、休憩時間に ちょっと買物をしました。子供服も沢山あり、たまたまオレンジ色の長袖シャツを見つ けました。ちょうど成和が着られる90cmのサイズだったので200円で買いました。

 親ばかともJHPばかとも言えますが、子育て中の社会人の方も、散歩がてら家族でJHPの 活動に参加することは可能だと、ふと思いました。そんな時に、子供用オレンジシャツ (夏はTシャツ)があれば、親子でボランティア! ということも気軽にできるような気 がしてきました。次世代(いや次々世代)の若者(赤ちゃん)も、思わぬ所で力を発揮 してくれるものです。

 そこで本題「勝手な提案」は、子育て中の皆さんの中で、赤ちゃんにオレンジシャツを 着せて活動に参加させたい! という人が10人以上いたら、私が責任を持ってJHPマーク をプリントしたシャツを作りたいと思います。(要実費負担)

おチビ隊は、ハイハイならぬ、バイバイをしてくれるだけでも大歓迎! こんな経験が、何十年先の日本のボランティア活動の普及に一石を投じるかもしれませ ん。

トンレサップ川

10月20日(月) プノンペン事務所 ニット

 6月と11月に、トンレサップ川は流れの方向が変わります。6月、季節風によりメコン川に大量の雨が降り、その分の雨水がトンレサップ湖に流れ込むため、周辺地域が洪水に見舞われます。11月、季節風が止む頃、水の流れはおさまり、トンレサップ川は流れの向きを変えます。

 しかし、東南アジア最大の湖であるトンレサップ湖の水位が下がるには何ヶ月もかかり、2月になってようやく元の大きさに戻り始めるのです。洪水により運ばれた泥は大変肥沃で、農家はこの地方に特有な水稲の栽培を発展させました。洪水の季節には、水中の生命も大いに成長します。そして水が引き始める頃、簡単に魚釣りが出来るようになります。漁業を営む家は網と竹の罠を仕掛けると、たくさんの魚を釣ることが出来ます。

 トンレサップ湖は水流がとても早く、魚釣りをしている人たちの姿はなかなか見られません。 トンレサップ湖の水上生活者にとっての楽しみは、ギンザメを釣ることです。ギンザメは水流に飲まれて泥に投げ出されても、数時間の間、水がなくても生き伸びることが出来ます。5月の終わりには、トンレサップ湖は元の大きさに戻りますが、すぐに6月がやってきて、季節風によって水流が逆転する季節となるのです。

10月12日(日)

10月14日(火) 東京事務所 清国将義

JHP日記には仕事のことを書いたことがない自分。
今回はちょっと仕事のことを書きます。

2日前の12日に今年の夏にカンボジアに行った2008年8月隊の報告会がありました。
彼らと初めて出会ったのは、5月。
8月には一緒にカンボジアで生活をし、あっという間に2008年8月隊としては最後の活動の報告会。
今回は、今までの報告会とは一変、カンボジアクイズあり、劇ありの報告会でした。自分の「劇やれば〜」の無茶&いい加減な一言でそうなっちゃいました。
8月31日に帰国してから、一ヶ月程度しかないなか、前日まで大丈夫かよ?!って感じだったのですが、本番はバシっと決めてくれて、ステキな報告会でした。
"お前ら、やるときはやるじゃん!"って、彼らを見直しつつ、別室の音響室の窓から見てても感動しました。

彼らはカンボジアで何を感じ、何を得たのかは、彼ら一人一人しかわかりません。
でも、いつかきっとこの経験が彼らの役に立つ時、彼かの何かのきっかけになる時が来ると良いなーっと思った10月12日の日曜日でした。
彼らのお陰で、その日の夜は美味しいお酒を大量に飲めました♪♪♪

2008年8月隊のみんな、これからもよろしくね〜

プチュンバン(カンボジアお盆)の過ごし方

10月6日(月) プノンペン事務所 バン・ラス

こんにちは、プノンペン事務所のバン・ラスです。
今年のプチュンバン(カンボジアお盆)に私たちは家族でシアヌークビルへ旅行に行きました。道中、激しい雨に見舞われ、シアヌークビルに着いたのは午後5時。そこから宿を探しました。見つけたゲストハウスはツインルーム1室20ドル!他に部屋はなく、しぶしぶ7人の大家族でツインルームで過ごすこととなりました。翌朝はソッカビーチで海水浴を楽しみました。大きな波とたわむれ、2歳9ヶ月の愛娘も大喜び、2時間ほど楽しい時間を過ごしました。
帰路、クバルチャイリゾートへ寄り道。ここはシアヌークビルから約10キロのところにある街で、天然の大きな滝があり、シアヌークビルを訪れる人は、みなここにも立ち寄るという人気スポットです。山頂から流れ落ちる水は、鮮烈で、すばらしいものでした。母親、息子、娘と妻、そして私もとても楽しい時間を過ごしました。もちろん記念写真も欠かしません。
名残惜しく思いながらも、日が暮れる前にはプノンペンに戻ってきました。新鮮な海鮮料理を食べ損なったことが心残りでしたが、とても満足のゆく至福の旅行でした。

丸腰ボランティアの中村哲医師

9月29日(月) 東京事務所 松本伸夫

 先月末パキスタン北西辺境州と接するアフガニスタン東部の山岳地帯で農業指導を続けていた日本人ワーカー、伊藤和也さん(31)が殺害されました。そのときまず思い描いたのは、伊藤さんら日本人ワーカーたちの先頭に立って働いていたペシャワール会現地代表の医師,中村哲さん(62)の無念の表情でした。
 1984年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)からパキスタンのペシャワール・ミッション病院に派遣され、ハンセン病撲滅計画に携わって以来、中村医師はパキスタン・アフガン国境地帯の山岳無医村で医療活動を続けてきた人です。この現地活動を財政的に支援しているのが、福岡市に事務局のあるペシャワール会で、会員数は2万人を超えているといわれています。
 中村医師とは直接お目にかかったことはありませんが、「現地の人と一体となり、苦楽をともにする」という一貫した「共生」の哲学に基づいた多数の活動報告書にはほとんど目を通して感銘をうけました。
 ハンセン病患者が感覚障害によって足底に穴があく「うらきず」に悩んでいると知ると、靴屋に変身したかのように予防用サンダル作りに全力投球。サンダル工房まで建てて、釘を使わず、代わりにラバー・スポンジを置いた柔らかい革サンダルを伝統スタイルで生産、販売して患者たちに大喜びされました。1986年のことです。
 こうして中村医師は、干ばつによる飲料水不足が赤痢大流行の原因だと知ると「水源確保事業」を立ち上げて「医者、井戸を掘る」を実践。食糧不足による飢饉が離村者を激増させ、難民化しているとわかると、かんがい用水のための地下水路復旧や全長13キロもの用水路を建設。さらにアフガン人が食べて生きていける基本的な生存権を保障するために、自給自足可能な農村復興を目標に「緑の大地計画」を現在実施中で、伊藤君はこの農業計画担当でおいしいサツマイモやお米、そば、お茶の栽培に手腕を発揮して地元農家から絶大な信用を得ていたのです。
 2006年発行の岩波ブックレット著書『アフガニスタンで考える』で中村医師は「われわれは、外務省がいうところの危険地帯と呼ばれるところで活動しているのですが、現地の人々から攻撃を受けたことはありません。.....われわれを殺してしまうと自分の首を絞めることになるわけです。........住民と一体になって行っている用水路建設は、彼らが本当に望むものにそっている活動です。それゆえに、丸腰であっても安全であるということの一つの証明になると思います。」と書いています。
中村医師のこの信念が今度の事件で揺らぐことなく、現地の人のための無欲な丸腰のボランティア活動が今後もペシャワール会によって継続されることを心から願わずにはいられません。

ヴェトナム訪問 

9月16日(火)  東京事務所 吉岡健治

 8月27日にスクン小学校で行われたJHP200棟記念贈呈式に参加したあと、29日からヴェトナムを訪問しました。目的は連れ合いが参加しているNPO団体のヴェトナム支援活動に参加するためでした。この団体は主婦だけで運営している団体でメンバーの高齢化に伴い海外支援活動は今回を最後に終了することになり、最後のヴェトナム訪問でした。30日に早速支援地のひとつダラットの近くにあるカレン村へバスで向かいました。ダラットはホーチミン市から北へ約300キロ、標高1500メートルの高地にあるフランスの植民地時代に開かれた避暑地です。ダラットまでの道は良く整備されていましたが、バスが慎重な運転をしたこともあり10時間の長旅でした。カンボジアではほとんど見かけない山が連なっていることと、山間地を除いて沿道に人家が絶えることがなかったこと、電線もどこまでも道路沿いにあり電気が普及していることがカンボジアを見慣れている私には驚きでした。
 ダラットでは8月というのに朝の町を行き来する人はヤッケを着込んだ人が多く、東南アジアとは思えないすっきりした空気と湖のある美しい街でした。
  支援しているカレン村はダラットから30分ほどバスで行ったところにある人口千人の村でした。コホ族という明らかに平均的ヴェトナム人とは顔つきの違う高地少数民族が強制的に定住させられて出来た村でした。彼等はヴェトナム社会の中で貧困と差別の中に置かれたままでしたが、この団体は13年前にまず医薬品代を送ることから支援を始め、次に健康のもととなる清潔な飲料水の供給(井戸を掘るだけでなく濾過装置とタンクを設置し、各家庭へ供給しています)、次に就学率向上のため自転車と奨学金を支給しました。このような支援は村のカトリック教会を通して行われました。教会の脇に補習室として4教室の支援もしましたが、これまでの支援金の合計は3百万円あまりで金額としてはたいしたことはありません。しかしひとつの村を継続的に支援したことにより、村の人々の生活、表情に大きな変化をもたらすほどの成果を上げていました。今回で支援活動を終了することを告げましたが、向上した生活や教育レベルがもう下がる心配はなさそうでした。
  ホーチミン市へ戻り市内のストリートチルドレンや親のない子に就学のチャンスを与えるため支援してきたラブスクールを訪問しましたが、支援開始当初豚小屋といわれていた建物が立派な3階建ての校舎になり土足で入るのがためらわれるほど生徒達により清潔に掃除されていました。この団体の支援がきっかけとなり地元の人々の協力でどんどんよくなってきたようです。ここでも80人あまりの子どもへ送っていた奨学金が今回で最後になることを告げましたが、奨学金制度はそのまま地元の人で継続するから心配しないで下さいとのことでした。
  この訪問を通して感じたのは支援の受け皿がしっかりしていて、蒔かれた種をしっかり育てていることでした。支援はあくまできっかけであり、支援を終了したあともその活動がしっかり地元の人によって受け継がれていくかどうかが支援活動評価のポイントになるのではないかと思います。
(写真)私達一行をドラを鳴らして歓迎してくれるコホ族の村人たち。

アフガニスタンでの事件

9月1日(月)  東京事務所 岩本宗孝

 アフガニスタンにおいて農業指導を行っているNGOの若いスタッフが、地元の反政府組織と言われる人たちに拉致された上、殺害されるという傷ましいニュースが飛び込んできた。 相手国や活動内容は異なるものの、等しく途上国支援を行っている団体の一員として、まさに他人事でない大きなショックであり、同情と愛惜の念を禁じえない。
 もちろん、犯人に対する憤りは誰しも変わらない。しかし、それ以上に我々が強く感じるのは、このようなことが生じた背景や原因の中に、「日本人」として、また、「日本という国家」として、今後、考え直さないといけない部分が大いにあるということである。

 まず、我々日本人は、現在、自衛隊が給油活動や輸送業務という形で実質的には欧米の中東での軍事援助の一端を担っていることは新聞報道でかなり知識を持っている反面、世界各地でこのように平和的な援助を地道に行っている数多くの人たちがいるという事実をどこまで認識しているだろうか、はなはだ疑問に思う。

 そして、このNGO団体の真摯な取り組み姿勢はもちろん賞賛に値するとともに、その目的、内容全てが、アフガニスタンの人たちのため、ということを現地の住民も十分理解しているのに、なぜ、このような仕打ちを受けねばならないのだろうか。 
 日本は第二次大戦後、交戦権と軍事力の放棄という、世界に冠たる憲法を作ったが、今や、それはまったく形骸化し、世界でも有数の軍隊を保有し、また、途上国の紛争にも実質的に介入するということを繰り返している。
 今回、亡くなられたNGOの方は現地では大きな尊敬と感謝を得ていたという。もし、日本が、本来の平和憲法の理念に基づいて、一切の軍事的な支援はしないが、平和的な活動は強力に推進すると、世界中で大きな声をあげ続けていたとしたら、現地の人達の日本人に対する評価はさらに高くなり、このような事件が発生することを防止できたかも知れない、と思うと大変残念な思いである。現実の姿は、それに反して、「日本人個人」に対しては感謝されたとしても、「日本という国」については、「欧米の手先」と理解されてもやむを得ないという状況にある。その結果として、日本や欧米諸国に対する恫喝や報復として、このように民間人を人質に取ったり、殺害したりという結果になっているのではないかと考えざるをえない。
 とにかく、今回の事件を、無駄に終わらせることなく、日本が、相手国の全ての人から信頼される国としての地位を築けるよう、せめて、政策の転換や意識の改革を図って欲しいと思う。また、我々NGOのメンバーとしても、これを強く訴えかけていくことが、故人に対する最大の酬いであるということを痛感する。


外国語学習

8月26日(火) 東京事務所 奥原 朋子

 J'etudie le francais, maintenant. 近頃私はフランス語の勉強にはまっています。英語もまだ満足に使いこなせるとは言い難いのですが、何か新しい言語を学んでみたくなり、ラジオを聴きながら趣味程度に楽しんでいます。

 bilingual(バイリンガル)やtrilingual(トリリンガル)、はたまたmultilingual(マルチリンガル)ともなれば、まるで自分とは別世界の人のように、憧れたり、羨ましく思ったりしませんか?特に「日本語」一つで通じ合える日本人にとっては、外国語を話せるというだけで、なんだか魅力的です。
日本のように一つの国で、しかも陸続きではない島国で昔から一言語で通じ合っているというのは、実はめずらしいことらしいです。戦国時代、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教の布教のためやってきましたが、その下調べの段階で、「種子島から都に至るまで一つの言語である」ことを特筆していたそうです。それだけ、当時色々な国を訪れていた宣教師達にとって、一つの言語が広い範囲で通じることは、驚くべき事実だったのです!・・といつか恩師が話していました。

 そんな私たち日本人だから、外国語を自由に操れる人が別世界の人に見えてもおかしくはない。しかも、「別世界」というのは、単なる比喩とは言い切れないんじゃないでしょうか?
人は普段、言語のフィルターを通して世界を捉えている、と考えてみましょう。すると、同じ世界を見ているときも、違う言語のフィルターを通した世界は違って見える可能性があるということです。例えば、信号機の色。日本では青信号、と言いますが、普通英語ではgreen(緑)だし、実際の色を見てもやっぱり緑です。そこで子どもが信号機の絵を描くとしましょう。よ〜く実物を見ている子どもは青ではなく緑で描くこともあります(「どうして緑なのに青って言うの〜?」と質問する鋭い子どもです。)が、中には必ずといっていいほど青を使う子がいます。これは、「青信号」という日本語がその子の世界を無意識のうちに形作っている良い例と言えそうです。
少し違った例を紹介しましょう。郵便物の宛名の書き方は、日本では都道府県が最初に来て、市町村、番地、宛名、という順番になりますが、英語圏ではまったく逆です。これは、まず全体あっての個という日本の文化世界と、まずは個が尊重される英語圏の文化世界を表している例と言えそうです。また、日本語は毎回「私は」「あなたは」と主語を付ける必要がなく、逆に全ての文に「私は」をつけていたら「何て自己主張の強い人なの!」と思われてしまうかもしれませんが、英語は誰が何をするのか、いつもハッキリしています。これも個を重視する世界観から来ていると言えるのではないでしょうか。

 こんな風に、言葉がある程度私たちの世界観をつくっていると考えると、違う言語を学ぶことは、別の世界を覗くことにもなるということです。言い換えれば、自分と違った文化世界を理解しようとするなら、その文化の言葉を学ぶことはかなり重要なポイントになるんですね。

 ・・などとちょっと堅苦しい内容になってしまいましたが、いつもはそんなこと関係なく、ただおもしろくてフランス語を続けています。でも今私が使えるフレーズはかなり限られたもの。限られるから、わかる言葉を繰り返すしかない。それでこの前、C'est bon, c'est bon! (おいしい、おいしい!)を何度も繰り返したら、「やっぱり日本人はお世辞好きですね。」と言われてしまいました。・・・フランス語のフィルターができるまでの道のりは長そうです。

カンボジア王国の国旗

8月19日(火) プノンペン事務所 メーン・サコーン

国旗はどの国にとっても大変大切なもので、お互いの国と国民を識別する役割を担っている。カンボジアも国家と国民を象徴する独自の国旗を持っている。 現在のカンボジアの国旗は3つの横縞があり、上段と下段は同じ幅の青色、中段はそれより少し幅が広い赤色で、アンコールワットが白く描かれている。どの色も濃い色で、目立ちやすくなっている。青色は王族、赤色は国家、白色は宗教を表す。ここで言う宗教とは、バラモン教に始まり、現在最も多く信仰されている仏教までのことである。アンコールワットは世界の構造を表している。 この国旗は1993年6月30日から、公式に復活したもので、もともとは1948年10月から1970年10月まで使用された。そして1993年にカンボジア君主制になると共にまた使用されるようになったのである。カンボジアの歴史を振り返ると、国旗は政権や統治国によって何度も変わっている。


近 々 諸 感

8月12日(火) 東京事務所 池谷一夫

健康について
   4月から早起き、ストレッチ、毎日1万歩歩行の計画を立てました。
  実行と効果は、いまいちですが、先日、散歩中にNHKテレビの街頭取材で小生の腹の出具合を見て「メタポに関心ありますか」など聴いてきました。やっぱり目立ったんでしょうか?
通勤風景
   ラッシュを避け、早めに出勤、気になるのは、女性の車中化粧、携帯でピコパコ・通話などの風景は不快ながら拡がり傾向でマナ−欠如は止められないのですが、抵抗感は持っています。「衣食足りて礼節を欠く」ような時代になるのは困ったものです。 それにしても電車内や街中で何十万の電波(電磁波)の中で生活する昨今、人体への影響はどうなんでしょう?
夏到来
   連日猛暑や、集中豪雨、南極の氷山溶出などは、開発や浪費による反動的な現象とも言われ自然破壊は想像以上。JHP・学校をつくる会の標語「できることから始めよう」は ここでも必要ですネ
  北京でオリンピック開催、カンボジアから3名。「参加することに意義あり」とほのぼのした気持ちになりました。
カレッジ状況
   第3期目、小山内美江子 国際ボランティア・カレツジ生募集中ですが、巾広い年齢層から応募を戴き、いま、開講準備中ですが、女性の積極的な参加や新幹線・特急で受講参加など、熱気が伝わってきます。  「学びと体験、理解を深め実践へ」としての講義とカンボジア研修へ おいで下さい。


フェラーチ基金

7月14日(月) プノンペン事務所 中山中

フェラーチ基金とは、私が社会人になってからずっとお世話になっているサッカーチームで作った基金です。構想から10ヶ月強。やっと1回目の活動を行ないました。日本からチームメイトとその友人がプノンペンまで来訪し、一緒に孤児院(CCHではありません)を訪れて、学校用シャツ、文房具、書籍、サッカーボールなどを配りました。そして、もちろん一緒にサッカーをしました。翌日は中学校2校のサッカー部にボールを10個ずつと空気入れ1個ずつを寄贈。1校は女子サッカー部で、なんと今年の全国大会覇者。こちらでは、全国1位になると、賞金約600ドルもらえるそうです。さてその賞金の使い道はというと・・・チームメンバーで山分けしたそうです。部費にならないのですね・・・中学生たちの夢を尋ねると、不思議と「決まっていない」「わからない」が多かったです。嘘でもいいから「プロサッカー選手になりたい」と言ってくれれば良かったのに。


「ふとした瞬間に」

7月7日(月) 東京事務所 木村晋也

今年の梅雨は雨が多いのか、少ないのか、東京に住んでいると屋根のあるところを移動する生活ばかりで、ニュースを見て頭ではわかっていても身体では覚えていません。昨年一年間は福井県の農山村で暮らし、自然と共存する素晴らしさと大変さを少しだけ理解しました気がします。ふとした瞬間にその場所や人が思い出されます。もちろん彼らはその土地で、東京で生活する今の僕と同時進行で生活しているのですが、不思議な気持ちです。
 2年前、小山内美江子 国際ボランティアカレッジの研修としてカンボジアに滞在しました。そこで会った様々な笑顔や悲しさは今でも同時にある世界です。当たり前かも知れませんが、ふとした瞬間に思い出します。日差しや風や強い雨が身体を通して僕に思い出させます。
あたりまえな事ですが、世界には同時にいろんな世界があって、くらしがあって、幸せがあります。本やテレビを見て他の世界を頭で理解しますが、身体で体験しなければ「思い出す」瞬間はありません。いま目の前にある自分の暮らしのなかで、同時にあるどこかの世界を「思い出す」ことができるのは、いまの暮らしをより「豊か」にするのではないでしょうか。
そこから何かが変わるかも知れません。

高等教育にアクセスできないカンボジアの子ども達

6月30日(月) プノンペン事務所 マオ・カナリン

 カンボジアの内戦が終結して早15年。しかし、いまだに復興が手付かずの分野があります。15年間の復興事業を経ても、インフラもまだまだ整備が必要です。私は、次世代の人材育成のためには欠かせない分野である教育分野について取り上げたいと思います。カンボジアのことわざで、子どもは「竹の子」であると言われていますが、21世紀の社会の発展に重要な役割を果たします。

 しかし、この若い世代は大変な状況にさらされています。田舎の学校では約20%の生徒が小学校を中退し、家庭の事情により高等教育を受けることができずにいます。また、小学6年生の15%は、中学校が遠く、交通費が払えないことから中学校進学を断念しています。

 生徒の中には、一生懸命勉強して高校を卒業している人もいます。この年代になると、大学に入りたければ、親から自立し、都市で仕事を探さなければなりません。しかし、残念ながらこのうちの1、2%しか十分な収入のある仕事に就くことができません。失業率は年々高まっています。98%の未就労者はどうやって生計を立て、大学へ行くのでしょうか。「貧困削減」を目標に掲げている政府も、解決策を見出すには至っていません。

 人材育成と教育こそが社会の発展に寄与しうるのですが、教育システムはなかなか改善されません。カンボジアの子どもの未来はどうなるのか。将来どれだけの失業者が出るのか。社会はどうなってしまうのか・・・。

 カンボジアの子ども達が高等教育にアクセスできないことは、家庭の貧困、学校不足、児童強制労働、教員の低賃金、教員不足等、さまざまな問題によって起こる重要な課題です。



アジサイ

6月23日(火) 東京事務所 佐野太悟

 うっとうしい梅雨の日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。肌寒い日もあれば、梅雨の蒸し暑い日が続いたりと寒暖の差も激しいので、お体にはお気を付け下さい。

 私の方はと言いますと、先日梅雨の晴れ間にのぞく青空に嬉しくなり、この貴重な晴れの日を存分に味わってみようと自転車で散歩に出かけました。普段は車や電車に乗っての移動なので、のんびり自転車に乗ってみると普段は気付かない発見をし楽しいものです。

 例えば写真のアジサイですが、自宅から5分もしないところに綺麗なアジサイが並んで咲いているのを発見しました。雨に濡れる姿も風流ですが、太陽の下に輝くアジサイも違った趣があり楽しいものです。色とりどりの花々には思わず目が奪われてしまいます。その後、近所にある井の頭公園を巡り、多摩川沿いを自転車で走りました。新緑の季節らしく青々と茂った草花に元気をもらったような気がします。適度な運動にもなり、ちょうど良い気分転換になりました。

 さて今回話題に上ったアジサイですが、関東ですと鎌倉や箱根が見頃のようです。皆様も梅雨のこの時期にしか見れない景色を存分に味わってみてはいかがでしょうか。

ウズベキスタンの首都タシケントと青の都サマルカンドに魅せられて

5月12日(月) 東京事務所 伊籐多栄子

今回友達の誘いでウズベキスタンを訪ねました。雪降るタシケントの空港エアローポルトに下り立ち何と寒いこと−8度、サマルカンドは−15度、ゆっくり観光客のいない遺跡を訪れてみた。

ウズベキスタンは中央アジアの真中にあり、4000年という長い歴史と豊かな伝統ある文化が根付いている。ウズベキスタンの人々の顔つきも日本人とよく似ている素朴で仕種も同じ、日本はシルクロードの終着点日本人も長い歴史のなかでいろいろな民族の血が混じり合い現在のようになったのでしょう。

日本では無くなってしまったが、一軒の家に親族が一諸に生活している年長者を大切にし多くの目が子供達の動きをみていて社会全体が子供達を見守っていてマハラといい日本の町内会みたいなもので最近は少しずつ壊れはじめているとか。ウズベキスタンの伝統料理はなんといっても(プログ)です。お米を大きな釜で羊の油、綿の油で炊き上げていき干しブドウ、人参、玉葱、羊の肉塊など加えてサフランで味付けした料理です、これは主食でプログは昔からその家の主が作ります味付けは家庭ごとに違うそうです。プログに欠かせないのが羊の肉私は羊の肉は少し硬くて臭い肉だと思っていましたがこれまた美味しいやわらかく甘い味で最高に美味しい羊肉です。
(ラグマン)も代表的な料理で日本のうどんに似た麺と羊の肉、野菜を入れトマトベースのスープで煮込みさっぱり味です、これも主食で(ナン)直径30cmほどの円形で少し塩味のついたパン、バザールで子供たちが焼きたてを売っているタシケントのナンは柔らかくサマルカンドのナンは固めです、固めのナンは昔戦争に行く時に無事に帰ってくるのを祈って家に飾るため固めになったそうだ。

冬のウズベキスタンは何かほっとした懐かしさと華やかさには欠けるかもしれないが落ちついた町が好きになった。

手作り化粧水

4月21日(月) 東京事務所 芳賀幸子

皆さん、体調はいかがですか。季節の変わり目はその人の弱点を襲われることがありますからお大事に。巷では女性に限らず男性も化粧品を使用する人が増え、男性用化粧水なんてのも当たり前に叫ばれてますね。私は2年ほど前から市販の化粧水とあわせて手作り化粧水も使用しています。きっかけは柚子好きな私が「柚子ジャム(いわゆる柚子茶)」を作った際、残った種と日本酒で化粧水を作り、冬場の保湿に威力を発揮してくれたことでした。2008年が明けたとある休日。近所のスーパーで面白いものを発見。無菌繭(20ヶいり)。最初はお風呂にいれて使ってみようと購入しましたが、パッケージをよく読んだらミネラルウォーターと植物性グリセリンで化粧水ができるとのことで早速試してみました。

料理でもぐつぐつ、コトコト煮込んだりするのが好きなので、繭とお水を焦がさないようコトコト煮詰める作業は性に合っていました。とっても気持ちのいい化粧水ができましたよ!"生もの"なので柚子化粧水同様、冷蔵庫に保管し早めに使い切る必要有りです。そして最近、何気なく読んだ某誌の「お酢」に関する記事を覚えていて「酢水」化粧水を試してみました。ちょうど家にあった「ざくろ酢」とミネラルウォーター、1対5といった割合です。クレンジングも保湿もバッチリでした。でも、きっと体質や肌質で合う、合わないがあるでしょうから、お試しになる方はご自分のお肌と相談してくださいね。今後は飲めるローズウォーターとグリセリンで試す予定。あとはJHPの立石理事がご自宅で育てているオリーブの実を、もしも分けてくださったら、「化粧用オリーブオイル」を作りたい!!!と、さり気なくアピールします。カンボジアのレモングラスティーも使えるのではないかと考案中。手作り化粧水をたっぷり使って、6月22日の『天満敦子チャリティーコンサート』に賛同くださる方が増えるよう頑張りましょう!ご協力お願いします。

ポルポト時代の私の暮らし(1975年から1979年にかけて)

4月14日(月) プノンペン事務所 パリー

私の名前はパリーです。1968年に生れました。私の家族は4人家族で、父は教授、母は物売り、私が長男で、妹が1人という構成でした。とても幸せに暮らしていました。

1975年、私が7歳で、プノンペン市内にある私立小学校の2年生だった頃の話です。カンボジアは内戦状態にあり、反乱軍が勢力を拡大していました。2月から4月にかけて、反乱軍はプノンペンを包囲し、街全体が不穏な雰囲気に包まれていました。政府軍は反乱軍に負け、街の中心へと追い込まれました。プノンペンには非常に多くの兵士がいて、昼夜を問わず銃声の音がし、毎日人が死んでいきました。ポルポトがプノンペンを支配すると、ロンノル政権は4月17日、崩壊しました。

ポルポトがプノンペンを支配した日、それは私の家族にとっては、プノンペンから撤去する日でした。明け方、ポルポト兵は歩兵隊を街のあらゆる道路に配置し、スピーカーを使って大きな声で、街の住民は直ちに立ち退くように命令していました。私の両親はカートに衣類や食糧を乗せ、準備を整えました。そして朝早く、私達は家を出ました。プノンペン郊外まで6キロほどの道のりを一日かけて歩きました。その道中、ポルポト兵が大人の男性達に対し、服を脱いで手を上げるように言っているのを見かけました。検問所にはたくさんの服が積み上げられていました。みんな神経質に泣き、悲しみ、助けを請いました。ポルポト兵達は検問所で市民に銃口を向けていたからです。

たくさんの検問所を通過すると、あたりはもう暗くなっていました。私達家族はトゥックトゥラという小さな市場にたどり着き、寝る場所を探しました。明かりもマッチもなく、真っ暗闇の中なので、手探りで探しました。ふと手に当たったものをよく調べると、それは死体でした。こわくなって、震えながらも、他の場所を探しました。ご飯も食べず、シャワーも浴びないまま、その夜は眠りにつきました。翌朝早く、食糧と衣類を積んだカートを転がしながら、再び歩き出しました。そして私の故郷となる、タケオ県にたどり着いたのです。

到着すると、人々は3つのグループに分けられました。一つ目はポルポトの支配下にある地元民。二つ目は、地元民であるが、プノンペンに親戚がいる者。三つ目はプノンペンから移住して来た者。私の家族は三つ目のグループでした。森に囲まれた小さな村で、藁や竹で作った小屋に住みました。人々は過去を隠すようにして生活をしていました。6、7ヵ月後、ポルポト政権は食糧の配給量を減らすことを決定し、そして男、女、子どものグループに分けて住まわせるようにしました。私は父、母、妹と離れてしまい、さみしくて毎日泣きました。

1977年、父は殺害され、妹は病気だったために注射で毒薬を打たれ死亡しました。母と私は父と妹の墓がどこにあるかわかりませんでした。私はとてもお腹がすいていて、日に日に衰弱し、体は腫れ、服はぼろぼろでした。毛布や下に敷く物もないまま寝ました。そして一生懸命働きました。そのようなひどい生活が、ベトナム軍がポルポトを倒すまで続いたのでした。


「耳」

4月7日(月) 東京事務所 大平初美

こんにちは。最近あたたかくなってきて、ウキウキしますね。
新しい生活がはじまったと思いますが、みなさんもいかがお過ごしでしょうか?

さて、わたしは先週の土曜日に美術の体験教室に行きました。

先生が掲げたテーマは「自分の耳を描く」。目で見るのではなく、手の感触だけで形や感覚を描いていくのです。左手で右耳をつかみ、さわりながら1メートルもある画用紙に描いていくこと3時間・・・。

いやぁ、これってほんとムズカシイ!触っているうちに、自分の耳のどの部分をたどっているのか、自分の手がどこにあるのか、がアヤフヤになってきます。

3時間後、参加者の作品を「いっせーのーでっ」で見せ合います。じゃあ、なんとおもしろい!耳の穴をメインに洞穴のような絵を描いたひと、耳を描いているときの自分の体(胸やひじや肩など)を描いたひと、耳が汗かいていたのでその湿った感じを絵に表現したひと、耳をさわったときの感触を断片的に描いたひと・・・ほんとひとそれぞれ!

こんなにいろんな発想があり、こんな表現があるんだ〜とすごく刺激をうけた土曜日でした。(ちなみにわたしは、ひねりなく「耳」を描いたのでした。自分の性格を改めて確認)

(写真:わたしが描いた耳。う〜ん何かグロテスクだなあ)


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シクロ

3月31日(月) プノンペン事務所 ピサール

シクロと呼ばれる伝統的な人力三輪車は、カンボジア人女性に人気の高い乗り物です。シクロはゆっくり進むので安全ですし、現在プノンペン市内には15000台も走っています。シクロの運転手達は毎日約8千リエルから1万リエル(1ドル=4千リエル)稼ぎ、その中から3千リエルが食費、2千リエルがシクロ所有者への支払いへと消えます。夜になると道端にシクロを停め、そこで睡眠をとります。

そんなシクロが、近年の経済発展の渦中、消えつつあります。人々はシクロよりコンバイ(いわゆるトゥクトゥク)を利用するようになったからです。それでも外国人と女性にはシクロは受けがよく、それというのもゆっくりで安全、かつ環境汚染の原因となる排気ガスが出ないからでしょうか。しかしある運転手は「将来、プノンペンからシクロは消滅すると思います。壊れた時に交換部品がなかなか見つからないし、新しいシクロを購入すると、スクーターと同じぐらいの値段になってしまうんです。だから古いのを使い続けなくてはいけませんし、交換部品は安いベトナム製のものを探して使います。」と将来に悲観的です。

またある警察官は「シクロの運転手はもともと農民であったり、学校教育を受けたことがない人が多いので、交通ルールを理解していないし、渋滞の種にもなるのが良くない」と言います。シクロ文化の存続には、オーナーが運転手を教育し、できるだけ安い値段でシクロを貸し、できることなら政府やNGOが介入することができればいいのではないかと思います。


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こんにちは、七條です。

3月31日(月) プノンペン事務所 七條孝司

花粉症とハウスダストにやられっぱなしの私ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

さて、今回はこの時季恒例のカンボジア8月隊募集のお知らせです。2008年8月3日から、30日まで、カンボジアで小学校に遊具建設しませんか?20数名の仲間達と、カンボジアで素敵な夏をすごしませんか。JHPで国際協力の第一歩を踏み出してみませんか?おっ!と思った方はこちらをご参照ください。

また、4月には代々木公園でのアースデイ東京(19日、20日)、メーデー中央大会(26日)にもブース出展し ます。活動隊に興味のある方、どうぞご来場ください。また、一足先に事務所でオリエンテーションやマンスリーミーティングに参加して、ボランティアスタッフとしての参加も大歓迎です。そして、5月10日13時から東京港区の麻布区民センターでJHP報告会&説明会を実施します。

みなさんのご参加心よりお待ちしています。


春ですね〜

3月24日(月) 東京事務所 清国将義

数日間、日本を離れていたら春が進んでました。

この週末で関東地方は桜が開花、我が家の桜の木にも、まだ少しですが桜が咲いてました。かなり寄って写真を撮ってみたら、さくらってピンクじゃなくてほぼ白なんだーって。一輪ずつが白に近い淡いピンクだから、満開のときはきれいなピンクになるんだなーっと。

去年までの廃校利用の事務所では校庭に桜並木があって、お昼時に花見が出来たけど、今の事務所はビルに囲まれてるからそれも出来ず残念。春は花粉症の自分にとってはつらくて憂鬱な季節。でも桜の花が咲き始めるとなんだか癒されます。


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カンボジアの靴

3月17日(月) 東京事務所 中込祥高

日曜日に床屋に行ったら、駐車場が一杯でした。 仕方なく、近くの大型靴店の駐車場にこっそり車を置いて目的の床屋へ。 きれいさっぱりした所で、サッと帰ろうと思いましたが、何となく心が引けて、 フラっと靴屋に入ってみました。

何となく手に取った靴のサイズを見ようと中をのぞいて見ると、何と、 “MADE IN CAMBODIA"の文字が・・・。 値段もそれほど高くないし、偶然かもしれないけど、サイズも合うし・・・、 などと珍しく衝動買いをしてしまいました。

さっそく、月曜日に履いてきましたが、少し歩いてみると、靴の前後の重さの バランスが悪すぎることに気が付きました。前が軽くて、後が重いので、何だか 歩いても走っても足が前に出て行かない感覚なのです。オーバーに言うと、月面 を歩いている宇宙飛行士のような感覚で、しっくりしない一日が過ぎました。

カンボジアに関わるNGOのお給料の中から偶然カンボジアの靴を買って、これ からカンボジアの靴に支えてもらおうと思いましたが、慣れるまで少しかかりそう です。カンボジアの経済も自立に向けて様々な歩みを見せていますが、人も国も、 この靴のように、なかなか自立に向けて前に進むのは難しいようです。

蛇足ですが、2月16日に長男、成和(せいわ)が生まれました。この子が自立する まで何年かかるかなぁ・・・。こちらもカンボジア隊のように、親として自分が学 ぶ こと の方が多いのかもしれません。写真は本人の許可が取れないので載せません。 ご希望の方は直接お声かけ下さい。(笑)


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ポル・ポト時代を生き残った内藤泰子さん

2月25日(月) 東京事務所 松本伸夫

いま私は、小山内美江子国際ボランティア・カレッジのカンボジア研修のためプノンペンに滞在しています。首都の目抜き通り、モニボン大通りの北端沿いに広大な敷地のフランス大使館が白壁も鮮やかに昔のまま建っています。この前を通るたびに私の脳裏には、1975年4月17日の赤いクメール共産勢力による首都軍事制圧(ポル・ポト政権の誕生)の情景が鮮烈に蘇ります。カンボジアからの脱出を願って何百人ものカンボジア人、外国人が命がけでこのフランス大使館の門扉の前に殺到したのです。だが"カラス"と呼ばれた黒シャツの赤いクメール少年兵たちに蹴散らされ、首都からの大移動(大下放)を余儀なくされました。このときの光景は米映画「キリング・フィールド」でも見事に描写されていました。それもそのはず原作者のニューヨーク・タイムズ紙のシドニー・シャンバーグ記者はこのとき門の中、助手のカンボジア人は外に放置され、引き裂かれてしまったからです。

今期のカレッジで教えているとき受講生の一人から「奇跡の生還に成功した日本女性がいたそうですね」と質問され、75年から3年8ヶ月のポル・ポト時代を生き抜いた内藤泰子さんのことを思い出しました。79年7月バンコクから日本に帰国する日航機内で内藤さん(当時46歳)の隣に座席をとり、体験談を取材したサンケイ新聞バンコク特派員、近藤紘一記者の著書『戦火と混迷の日々』(文春文庫)を早速図書館で借り出して、受講生たちの間で回し読みしました。

国道5号線を北の方へ追われ野宿を続けているわずか3ヶ月の間に日本生まれの2人の息子を病気で失い、ポーランド公使まで勤めたカンボジア外交官の夫も牛車での再移動先で亡くしてカンボジアで天涯孤独となった内藤さん。想像を絶する悲惨を経験しながら「なんとしても生き抜いてやる」という生への執念のすさまじさが印象的でした。インドシナの悲劇を知り尽くしている内藤さんは82年に、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞した近藤記者も86年にそれぞれ病死しているのも、私には痛ましいことでした。


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アンコールワット訪問記

2月18日(月) 東京事務所 岩本宗孝

昨年の1年間に2度(4月と12月)、アンコール遺跡を訪れる機会がありました。初めて行ったのは2002年ですから約5年ぶりということになります。いつもその壮大な姿には限りない感動を覚えますが、一方で、観光客が増加して、ゆっくりと見物できないようになったことも確かです。最近は日本人以上に韓国人が多いとのことです。そうした観光客の安全を図るためでしょうか、最初に訪問した時は、アンコールワットの最上部の第三回廊まで、垂直に近い階段を登って到達できましたが、現在は、縄が張られて登ることは禁止になっていました。

4月に訪ねた時には、朝6時前にアンコールワットに出かけ、日の出を見物できたのがもっとも印象に残りました。(写真上)西側の参道の正面から眺めると、ちょうど朝日がアンコールワットの後方からのぼってくるわけですが、一瞬、言葉を失うほどの荘厳な雰囲気に包まれます。春分、秋分の日にはちょうど中央の塔の真後ろから登るそうで、この建物の配置が綿密な設計に基づいていることが察せられます。

観光客が増える一方で、それによる弊害も出始めているようです。特に、ホテル等からの排水がトンレサップ湖(写真下)の湖水を汚染させていることが大きな問題になっています。また、遺跡自体も砂岩が主体のため、風化が著しく、このままでは遠くない将来に崩壊してしまうとも言われています。せっかくの貴重な世界遺産、何世紀も後まで、現在の姿を留めてほしいものです。


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ダーリエン儀式(村の儀式)

2月15日(金) プノンペン事務所 リーサムニット

毎年カンボジアのほとんどの村でつらい労働シーズンの終わりを告げるお祭りが行われています。これがダーリエンまたはスダーリエン祭り、収穫のお祭りです。

ダー、もっと正式にはスダーは仏教の儀式を意味します。この儀式では一生懸命働いた成果が先祖の霊や保護者にささげられます。この儀式は普通1月と2月に行われますが、何日に行われるかは天候と米の収穫時期によって決まります。

米が収穫時期になると多くの村では田んぼに出て、米を取り込みます。これは骨の折れる作業です。しかしとうとう田んぼに何もなくなると、それがお祝いの時期の合図になります。村がちょうど収穫を終えるやいなや、ダーリエンを祝う日を待ちます。お祭りはいつも夕方始まり翌日の午後に終わります。

まず村人がお寺か村に集まります。すぐにお坊さんがお祈りをするため到着し、収穫をもたらしてくれたご先祖に感謝します。

それからお祭りが始まります。皆一番よい着物を着ます。アンプが音楽を大音響で流し、若者たちは夜遅くまで、時には朝まで踊ります。年長者は踊りに加わるか、座って踊りを見たり、話をしています。

ダンスは輪になってゆっくり踊るローンヴォ―ンや古典舞踊のローンバルチのような伝統的な踊りに限りません。クメールのゆっくりした歌や西洋のポップを交互に繰り返します。これは収穫のつらい労働が終わったことを祝うお祭りです。ですから最近の曲やディスコもレパートリに入れます。

翌朝、村人は家に戻り、僧侶に食事を持ってきます。僧侶たちは収穫したばかりの米の托鉢に廻り、お寺へもって帰ります。

80パーセント以上のカンボジア人は農業を生業にしています。経済は圧倒的に農業に依存しており、収穫は豊作であっても何とか足りる量であっても救済と喜びにつながります。今年はある地域は旱魃に見舞われ、ある地域は洪水に見舞われました。そのため国全体の収穫量は減りました。そして米の値段が上がっています。しかしダーリエンは済んだ季節に味わった失望をくよくよするときではありません。ダーリエン祭りは村をひとつにします。

私達は3ヶ月から9ヶ月の間、米の収穫のために働きました。得られた一粒一粒のお米は途方もない労働と心配とストレスの結果得られたものです。 私達の食卓に上る一粒一粒のお米は、収穫までの避けられない消耗と脱穀作業、積荷と輸送、精米後、洗い、煮てやっと得られたものです。

翌日も同じ順序で進みます。すべてのサムロー(スープ)からデザート、ケーキがお寺かお祭りが行われている所に集められ、村人達は一緒に座り、お祭りが再開される前に食べます。 ダーリエンの間に全部で3回の食事を村人みんなで食べます。

ダーリエンのお祝いは場所によって少しずつ違います。 現在のダーリエンは、ほとんど仏教の儀式ですが、その起源はバラモン教と仏教にさかのぼり、カンボジアの古代アニミスト信仰にも深く由来しています。

ダーリエンはお米をもたらしてくれる大地と雨と水と天候、そして先祖と年長者、また貴重な収穫を貯蔵する穀物倉庫に感謝する儀式です。今日ではダーリエンは3つの宗教の混ざったものになっています。

先祖崇拝はアニミズムに由来し、自然崇拝はバラモン教に由来し、僧侶とお寺はカンボジアの国教である仏教の最も大切な印です。

カンボジアの村人はこの時期が大好きです。私達はいつも凧で遊び牛を放ちます。これは収穫が終わり、再び5月に田植えが始まる間の楽しみです。

新しい季節は遠くありません。農民達は4月30日に行われる王室の耕作儀式が終ると再び田植えを始めます。


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アフリカへ毛布をおくる運動

2月12日(火) 東京事務所 吉岡健治

2月4日アフリカへ毛布をおくる運動(JBAC)の委員会が開催されました。私は2001年以来JHPから幹事として参加しています。JHPはこの委員会の構成メンバーとして毎年毛布収集キャンペーンや毛布配布ボランティア隊に参加してきました。

毛布をおくる運動は1984年のエチオピアの大干ばつによる被災者を支援する活動として始まり、来年で25周年を迎えます。毛布をおくって欲しいという要請はまだありますが、国内で毛布がだんだん使われなくなり、中古の毛布ではなく新品の毛布を購入して寄贈してくださる方が増えてきたこと、1枚千円の輸送費で現地の新品の毛布を購入できること、支援の仕方が物資を日本から送るのではなく、現地で購入するほうが現地の経済発展に貢献出来るため、現地購入に変わりつつあること、毎年配布する10数万枚の毛布のうち、配布隊が実際に配れるのは5%程度しかなく、残りは現地の受け入れ団体に任せているため、詳細な報告は受けているものの、最終裨益者に確実に届いているかどうか事務局で直接確認できないこと等々の理由で25周年の2009年を機会に運動を終了することになりました。

まだ今年度と来年度の2回収集活動がありますので有終の美を飾るため最後のご協力を皆様にお願いしなければなりません。また毛布基金の口座をUNHCRに設けてもらい、現地購入ベースの支援はその後も継続されます。

毛布はアフリカの人たちが本当に必要とし、喜んでもらえる物資でしたが、このような事情で継続が難しくなりました。JHPではカンボジアへ各種支援物資を送っていますが、近年カンボジアも経済発展が続いており、集める物資は本当に必要とされている鍵盤ハーモニカ等に制限せざるを得なくなりつつあります。中古の支援物資をおくることが、だんだん難しくなってきたと感じています。環境保護の観点からも、中古の学用品や衣類を支援物資として途上国へ送るのではなく、日本の伝統でもあった、使えるものを最後まで大切に使うことに価値を置く文化に立ち戻る必要があると思います。


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秘密の住人「小人」

2月5日(火) 東京事務局 奥原朋子

前回初めてJHP日記を書いてから約5ヶ月。毎日テキパキ仕事ができるようになりました!・・と言ったら、東京事務所で大ブーイングが起きるでしょう。私は幼い頃から厳しく育てられ、自分は「しっかり者」だと思ってきました。・・勘違いもいいところです。

3月にカンボジアに行くことが決まり、パスポートを提出することになったのですが、いつもあるはずの場所にない!おかしい!今までパスポートを無くしたことは一度もなかったので(普通ないでしょう)大騒ぎです。私の前の席に座るS氏が「きっとさぁ、奥原さんの家には小人が住んでるんだよ。それで時々ものを隠しちゃうんだね。」・・そんな訳ないでしょう。

それから一週間。持っている鞄は全部ひっくり返し、部屋の棚、引き出し、クローゼット、ノートの間に至るまで細かくチェックしてみましたが、見つかりません。せっかく10年パスポートだったのに!今まで訪れた国の入出国スタンプもたくさんあったのに!!でも見つからないものは仕方がありません。必要書類を用意して取り直すことに。そういえば、今年のおみくじは「失物・・出にくいでしょう。低いところにあるでしょう。」と書いてあったっけ。・・ん?低いところ??慌ててもう一度低いところを探してみたら・・ 「ああああああ!!あった!!!!!」嘘みたいな本当の話。そういえば、大事なものは、箪笥の一番下の引き出しの小物入れの下に隠したのでした。そして隠したことをすっかり忘れておりました。う〜ん。どうやら小人は私の頭の中に住んでいるようです。

これでまた東京事務所での私の株は下がりましたが、重要なのは、"Look at the bright side"。まず、パスポート捜索中に、無くしたと思っていたネックレス2つと運転免許証がでてきました。更に、探しものをするために部屋中をひっくり返したので、引越し以来片付いていなかった部屋が整理されてすっきり!ほ〜ら、悪いことばかりじゃないでしょう?今日も前向きに、元気に行きましょう!


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三宅島の風

1月28日(月) 東京事務所 伊籐多栄子

三宅島災害・東京ボランティア支援センター東京災害ボランティアネットワーク 主催の2007「年末おそうじボランティア」に12月14日から16日参加しました。東京災害ボランティアネットワーク上原事務局長と6団体16名が参加。

2000年にはじまった三宅島噴火災害、2005年2月の帰島を経て暮らしの再建が始まりすでに2年11ヶ月目を迎えていますが島の高齢化率は40%を越えとりわけ高齢者が抱える課題は深刻さを増しています。現在もなお火山性のガスが発生しているのでガスマスクは常に携帯します。

活動内容は高齢者を中心に一人暮らしの方、病人や障害のある家庭を中心に年末のお掃除に少しでもお役に立てたらと事前に掃除をしてほしい場所を決めてもらい4班にわかれ作業。B班3名は阿古地区のご夫妻でご主人が病気のお宅で窓ガラス拭き、電気のかさ、ガスレンジ、風呂場の掃除、物干し竿の設置等で私達が少し作業をすると疲れるからお茶にと気を使ってくれて三宅島特産サトイモの煮物をいただきました。素朴な味で砂糖と醤油の味付けのサトイモ煮はお正月にも山の神、海の神、土の神など色々な神様に捧げるそうです。

焼き芋のことを「どんびらっこ」と呼び、さつま芋は2種類あり「おつるさん」と「てるこさん」があるそうで「さつまもち」蒸かしたさつま芋をつぶして干し、もち米と一緒に蒸してついて丸餅にして正月に地主さま(どこの家も必ず地主さまがあります)に捧げます。三宅島は明日葉、くさや、島のりも有名ですが、サトイモ、きぬさや、赤めイモもとてもおいしいです。

最後にご夫妻に島の話をうかがいました。 この災害は大変ではあったが色々な方との関わり、この事をいただいた者として幸せだと今も思っている、色々あるけれど島が一番だ。最近みんな元気になってきたよと話してくれた。

                  今日もまた三宅島の風が飛んだ

(写真上:サトイモの煮物 写真下:三宅島)


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新渡戸稲造と夜学校

1月21日(月) 東京事務所 松本伸夫 

新渡戸稲造といえば、かつて新五千円札の肖像にもなった日本の代表的な国際人です。第1次大戦後設立された国際連盟の初代事務局次長として8年間、国際文化交流、知的交流面で活躍、最近では英文の著書『BUSHIDO(武士道)』が評判になっています。私が新渡戸に強くひかれたのは教育者としての一面です。

1891年アメリカのジョンズ・ホプキンス大学留学を終えて帰ってきた札幌の貧民街に、彼は「遠友夜学校」を開校しました。第1は老人、成人のため、第2は官公立の予備校に入学できない青年のため、第3に初等教育を受けられない貧しい子どもや女子のため、でした。敷地や二階建て民家購入の資金は、新渡戸夫人のメアリーさんが米国の出身地の篤志家女性から遺贈された寄金でまかなわれました。夫妻=写真=ともども熱心なクリスチャン(クエーカー教徒)で、虐げられた人、弱い人、目立たない人への繊細な感受性の持ち主でした。日曜学校には新渡戸氏自ら教壇に立ち、キリスト教の博愛精神をやさしく説いたといわれています。この夜学校にはアブラハム・リンカーンの肖像画とともに、新渡戸が直筆で書いた有名なリンカーンの言葉「With malice toward none, With charity for all(何人にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛を)」が掲げられていました。

正規の教育機関とは認定されなかったこの遠友夜学校は、新渡戸が北海道から離れた後も彼を名誉校長に引き継がれ、その死後はメアリー夫人が校長となり、1944年まで存続しました。今私が担当理事としてかかわっている夜学「小山内美江子国際ボランティア・カレッジ」でも「With charity for all」を心がけたいと肝に銘じています。


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『真実一路』

1月15日(火) 東京事務所 芳賀幸子

皆さんは「日記」をつけますか?私は色々な夢を頻繁にみるのでなんとなくそれを書き留めたり、過去に愛猫の闘病日記をつけたり(先生に状態を伝える必要があったのと、なんとなく共に過ごせる時間が残り少なく感じていたため)、またはその時気になったことを記したり・・・ということがありましたが、"365日書き続ける"という"継続は力なり"を実践することができていなかったことを2007年末に反省し、"黒革の手帖"ならぬ"赤いカバーの日記帳"を購入。

2008年元旦に、先ず、両親から"今年一年を過ごすにあたっての言葉"を冒頭のページに書いてもらった際の父からの言葉が題名の通りです。農業を生業として一筋に生きて来た人間としては、どうやら昨年の食品偽装など、世の中を憂い、襟を正してほしい想いがあるようです。今年は毎日自分に問いかけるでしょう。「真の路を一筋に務めてますか?ハガサチコさん!」せめて、面をあげられるよう在りたいものです。

今年もどうぞ宜しくお願いいたします。JHPは15年が過ぎ、新たな一歩の始まりです。

追伸、昨年、クリスマスが近い頃、前職で勤務していた音楽出版社に所属していたICE(アイス)という男女ユニットの作詞・作曲・ギター他を担っていた宮内和之さんが43歳の若さvで天国へ旅立ちました。耳下腺がんという私には耳慣れない病気でした。レコーディングの予定も組まれていたようですから、なんとも人生の輝きと儚さを感じた次第です。興味のある方は、紙ジャケットで各アルバムが再発売されてるようですから聴いてみてください。

写真は12月に訪れたLyon、フルヴィエールの丘からの眺望です。


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シアヌークビル

1月11日(金) プノンペン事務所 新屋由美子

日本は今大変寒いと聞いておりますが、カンボジアはさほど暑くもなく、雨も降らない、一年で最も過ごしやすい時期です。

教育支援チームは、音楽・美術プロジェクトのメインイベント、音楽コンテストと地方巡回絵画展の季節となり、地方へ出向く機会が多くなりました。先週はシアヌークビル市で地方巡回絵画展が開催されました。また、2年間のサイクルで行っている音楽トレーニングは、シアヌークビル市の小学校教員約20名対象のフォローアップトレーニングが全日程終了、残るは音楽コンテストに初出場を果たし、トレーニング修了式に出席するのvみです。昨年8月カンボジアに赴任して間もない頃、同市での音楽ワークショップが幕明けたところでしたので、時の流れを感じます。

シアヌークビル市は国際港を持つ海の街です。日本の皆様より東京事務所へ送られた楽器は、このシアヌークビル港へ到着します。海の街ですから魚介類がおいしく、食事をとても楽しみにしています。カンボジアの人たちが普段食事をとるレストランでは、大概1人1品おかずを注文して、それをみんなで分け合って食べます。人数が多ければ多いほどおかずの種類が増えます。しかし、みんながこぞって魚介類を注文するため、ほとんどが魚料理…ということがよくあります。味付け(辛い、酸っぱい、油もの等)は気にしていますが、魚や肉などは重なってしまっても気にならないのだそうです。

(写真:活動隊のシアヌークビルでの定宿、モハサルホテルの犬。 5分以上この姿勢を保つことができます)


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